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Nightmarish Memories


 気がつくと、すでにそこは戦場と化していた。
 憎悪をはらんだ炎が辺りを覆い尽くし、敵か味方か、どちらのものともつかぬ怒号や悲鳴がこだまする。
 つい先日までは居城だった巨大な建築物が、数時間のうちに殺し合いの場へとなり変わり、数え切れないほどの戦士たちが流した血の臭いを──戦争の臭いを充満させていた。

 すでに戦闘の前線は城の最深部へと移っており、城門付近には破壊された城壁と、物言わぬ亡骸だけが残されている。錆びた鉄にも似た異臭は薄まることなく瓦礫の海を漂い、むしろ刻一刻とその濃度を増しているようにも思われた。
 まさに悪夢のような光景。

 その中を、年端もいかない少女がひとり、懸命に走り続けていた。
 剣戟の音、断末魔、苦悶の声。絶え間なく鼓膜を刺激する戦いの轟音。烈火にあぶられた夜風に乗って聞こえてくるそれらに半ば錯乱しながら、それでもなお幼い少女は、震える脚で進み続けた。
 平和な世界とは決して相容れない、異質な空気を振り切るかのように。

 *

 ダンッ!
 少女は開け放たれたままの扉の前でつまずき、勢い余って部屋の中へと転がり込んだ。
 とっさに行儀作法が服を着て歩いているような教育係の教えが脳裏をよぎったが、あえてそれを無視する。入室時の礼儀どころではない状況下に、いま自分はいるのだから。

 いや、彼女だけではない。この世界に住まう全ての生ある者たちが、戦争という非日常の空間に足を踏み入れていた。
 五つの異なる種族が互いに牙を突きたて合い、殺し合う日々が、もう数ヶ月間も続いている。地上全土を戦火が覆い尽くし、血の流れぬ日は一日たりともなかった。戦争に明け暮れる、地獄のような日々。

 倒れ込んだ次の瞬間、彼女の視界に飛び込んできたのは赤い色だった。べったりと床に広がっているそれには、紅色や緋色、朱色のような鮮やかさがない。もっと濃くて暗い色の……それは、血だった。
 血だまりの中に、男がうつ伏せている。苦痛の形相を顔に貼り付けたまま、しかしその瞳はどうしようもなく曇っていて、虚ろだった。もはや事切れているのは明らかだ。
 幼い少女が小さく息をのむ。ゆっくりと視線を移したその先。広間で展開されていた惨状を目にした刹那、彼女は身動きがとれなくなってしまった。細い肩が上下するたび、淡い黄金色をした絹のような髪が揺れる。

 そこには二つの種族──“天人”と“海人”の姿があった。
 一目で王室関係者と判る容貌を備えたこの少女は、背に一対の翼を有する“空を往く者”、天人種族に属している。敵兵である海人の戦士が、見逃すはずがなかった。

「がぁッ!」

 裂帛の気合いと共に、鉤爪と化した海人の爪が斬りかかる。
 声が出ない。動けない。背に走る戦慄。少女が青空色の瞳を見開いた、その瞬間、金髪をはためかせて天人の戦士が地を蹴った。
 風が唸る。
 振り下ろされた五本の鉤爪は、少女の柔肌を切り裂く寸前、一瞬でその腕ごと断ち切られた。更に間髪入れずに放たれた首への一撃が致命打となり、海人は完全に沈黙する。

 何たる早業。海人兵は悲鳴を上げることすら許されずに絶命した。
 ひとまずこれで周囲は天人のみとなったわけだが、少女を救った戦士は秀麗な顔を険しくしたままだ。焦燥、憤怒、悲哀、諦念……そこには幾つもの感情が見え隠れしていた。

「ルシファー!?」

 ひと呼吸だけ置いて。金髪碧眼、白翼。長身痩躯。非の打ち所がない容姿をしたその戦士は、少女を責めるような口調で呼びかけた。

「ルシファー、なぜ戻って来たんだ!? ここはお前のいるべき場所ではない。分かるな?」
「お父様……」

 少女は呆然としたまま眼前の戦士を見上げた。父親であり、天人国の王でもある、セラフィム=ディーク=レグナ=ローランスの名を持つ戦士を。

「でも……わたし……」
「ルシファー!」

 少女の震える声に、凛とした女性の声が重なった。それは天人王の妻、即ち母親のものであることを、少女は見るまでもなく理解した。
 アンジェラ=アルディ=ティルム=ローランス。齢三十歳前後といったところだろうか。彼女の面持ちはルシファーとよく似ていた。しかし、そこにはいつもの優しい微笑みはない。戦場で半ば放心している娘の姿を見るや否や、

「何をしているのです、すぐに退避なさい! 敵兵は王族と“法願使い”を狙っているのですよ!? ましてあなたは金色の髪に蒼い瞳、すぐに王族だと知れてしまいます。こんなところにいたのでは、格好の標的以外のなにものでもありません。
 ……さあ、早くお行きなさい」
「でも、お母様!」

 ルシファーは大きな瞳に涙を溜めて、父と母の言葉に抗う。
 ここで別れれば、恐らく生涯の離別になるであろうことを、少女は直感的に悟っていた。そして、それは彼女の両親とて同じことだった。

「両陛下! ご無事ですかッ!?」

 息も絶え絶えに広間へと飛び込んできたのは、南の森林地帯へ攻め込んできた海人の一団を迎え撃つため、別行動をとっていた部隊の戦士たちだった。皆あちこちから血を流しているが、それにかまってなどいなかった。傷ついた翼に鞭打ち、必死の思いで駆け付けたに違いない。
 セラフィムは彼らを安心させるため、できる限り穏やかな表情を作った。

「ここにいる。城の最深部にまで侵入を許したのは遺憾だが、私たちは大丈夫だ」

 国王の力強い眼差しを受け、戦士はにわかに生気を取り戻す。

「南部の森、掃討完了いたしました!」
「そうか。皆、よくやった。少し休むといい」

 国王と王妃の無事な姿を目の当たりにして、不眠不休で飛んできた戦士の肩の力がようやくわずかに緩んだ。

「敵は城都の市街地に布陣中ですが、すでに民は退避しました。第三、第五部隊は待機中。あと城内に残っているのはこの場にいる者だけです」
「それでは陛下」
「うむ。我々も市街へ参ろう。外に出れば、我らには翼があるぶん遥かに有利だ。戦える者は各隊長の命令に従って行軍し、重傷の者が出たらすぐに王妃に診せろ。治癒の法願で助けられるやもしれぬ。万が一、非戦闘員を見かけた場合は、その者の保護を最優先とする」
「はっ!」
「それから、誰かルシファーを退避させてやってくれ。敵は王族、そして法願使いを狙っているのだ。ルシフェルはすでに退避したのだが……この子の容姿ではどうしても目立ってしまう。
 よいか、決して人目に触れぬよう、慎重にことを進めてくれ。頼んだぞ」
「承知致しました。必ずや」
「うむ。ならば──往くぞ!」
「おうっ!」

 額を、腕を、脇腹を。天人の証たる一対の翼をも、自ら流した真紅の血に染めながら、空を往く者たちはそれでもなお羽ばたく。

「海人は不気味な能力を持つ者が多いと聞く! 迂闊に近づくな! 空を行け!」
「人食い鮫どもの好きにされてたまるか! 皆、行くぞッ!」
「我らの生きる世界、天人国を守るんだ!」

 思い思いの鬨の声を上げ、戦士たちは次々と露台から空へと吸われていった。

「ルシファー」

 戦装束に身を包んだ王妃は膝をつき、まだ七歳にもなっていない娘をそっと抱きしめた。

「ルシファー。いずれあなたにも、己の運命と向き合わねばならないときがやってくるでしょう。せめてそのときまでは傍で見守っていてあげたかったけれど……」

 遺していくことになるであろう幼い娘は、現存する稀少な法願使いの末裔。その異質で強大な力ゆえに苦悩する日が、いつか必ず訪れる。そのとき、一体誰がこの子の傍にいてくれるのだろう?
 願わくば、兄ルシフェルと共に健やかに育ってほしい。王妃の最後の願いだった。

 頬を寄せ合う母子を見つめていた国王は、不意に二人に近寄ると、妻子を一緒に抱きしめた。娘を抱き上げ、その小さな背にある幼げな白翼に触れる。
 白桃の頬。輝く黄金の髪。紅葉のような手。妻によく似た清雅な面差し。
 小さく、柔らかく、温かい、愛しい子。掌で娘の頬を包み込み、国王はその額に唇を寄せた。

 ──光を見据えて前に進め。そして、その光が生み出す影を見過ごすな──

「お父様……お母様……!」

 ルシファーはただそれしか言えず、父と母にしがみつくようにして腕を伸ばした。
 言葉になどならない。視界がにじむ。抱きしめられた両親のぬくもりと甲冑の冷たさとが、ひどく鮮明に感じられた。

 涙でかすんだルシファーの視界を、大きな白い翼が遮った。
 ──戦士たちが往く。
 風に乗り、銀色に輝く満月を目指して。
 揺るぎない誇りをその胸に抱いて、彼らの母なる大空へと。


 END