Your Name (1)
物心ついてからずっと独りだった。
清潔さだけが取り柄の薄暗い監獄の中、言葉を交わす相手もなく、ただ生かされているだけの日々。
なぜ自分は閉じ込められているのだろう。
なぜ自分は“忌み子”なのだろう。
“あの女”はいつまで自分を飼っておくつもりなのだろうか。
身体に深く染みついた疲労感の上に、疑問が重なり降り積もる。答えが与えられることのないまま淀んで凝り、ゆっくりと確実に煮詰まってゆく。
青白い身体を丸めて毛布にくるまると、少しだけ気持ちが和むような気がした。
そう、確かなものは己の体温だけだった。
*
「エーギル」
暗く淀んだ声が呼ぶ。牢獄に響いたその単語が自分の名前だと思い出すまで、ゆうに一呼吸分はかかった。
「エーギル」
繰り返し呼ばれたが、返事はしなかった。
与えられた固有名詞は他の存在と区別するために有用なのかもしれないが、薄闇の中で独りうずくまるだけの自分には大して必要ないものだ。物心ついた時から闇は自分と一体であり、自分は引き伸ばされた闇の一部なのだから。
今のように不意に名前など呼ばれると、身体に馴染んだ闇からざくりと切り抜かれたような幻覚を抱いてしまう。じっと座っていれば意識が闇と溶け合って、自分が果てしなく広がっていく感覚を味わうことができるのに、この女は時折こうしてその邪魔をしにやって来る。
「世界は戦に明け暮れているぞ」
女は獄に囚われた幼い少年を前にしても顔色ひとつ変えず、返答がないことにも頓着せず一方的に喋り始めた。
「今朝方、獣人国が地人国に攻め入った。血気盛んなケダモノどもにしては遅すぎるくらいだが、これから面白くなるやもしれん。
……そして我が海人国は、今まさに天人国を食らわんと奮戦している」
鉄格子越しに視線がかち合う。隣国の名を口に出すと、女は溶岩のような瞳でエーギルを睨み据えた。
「我が弟──お前の父親は最前線の部隊を指揮している。海人王の嫡男ともあろう者が、自ら志願してな」
前代未聞だ、と吐き捨てる。
「この戦で武勲をたててみせると、あの子は父王に申し出たのだ。何故か分かるか、エーギル」
青緑の瞳がいっそう烈しく煌めいた。ゆっくりと、突き刺した刃をねじり込むように言葉は紡がれていく。
「それは、忌み子であるお前の自由を購うためだ」
「あがなう……」
「そうだ。海人の子は多胎で生まれるが常。お前のように双子の兄弟を持たずして独り生まれ落ちた者は、災いの化身。忌み子よ。ゆえに生涯を牢で過ごすことになっている。だが、クロノスはそれを頑として承服しなかった」
エーギルを見下ろし、女は息を吐いた。声量のわりにはよく通る声が、石牢に響く。
「『私が目覚ましい戦果をあげた暁には、どうか我が子エーギルに幾ばくかの便宜を』……そう言って、あの子は最前線の激戦区へと向かいおった。
獣人や天人ではあるまいし、王族が陣頭指揮を執るなぞ海人国始まって以来の珍事かもしれぬな。父王もため息をついていたわ」
かすかに嘆息を漏らした気配がしたが、エーギルはすでに女から視線を外してしまっていた。
少年の脳裏を占めるのは、鉄格子越しにしか接したことのない父親の姿。二日に一度は顔を見せに来ていたのが、ここしばらく姿が見えないと思ったら……
「報告によれば、今のところ進攻具合はそう悪くない。ふん、近いうちに獄を出られるやもな」
(自由、忌み子、父……)
冷然たる口調からは、伯母の内心を読み取ることなどできない。そもそも、このような話を自分に聞かせた意図すら定かではない。
だがエーギルはいつものとおり気にすることなく、薄闇に包まれた己だけの世界へと戻っていったのだった。
*
「やっ……離して!」
爪を立て、噛み付き、身体全部を使って暴れ回る。
しかし少女の必死の抵抗は、屈強な腕にあっさりと押さえ込まれてしまった。
「翼の付け根を狙え!」
「早くしろ、縄だ!」
複数の敵兵に引きずり倒され、両手を縛られ、そのうえ天人の泣き所である翼の付け根をも押さえられてしまっては、もはや幼い少女に為す術などない。
「離して、いやぁ!」
「王太子殿下、いかがいたしますか?」
「怪我をさせるな。気絶させて運べ」
戦場の混乱の中で王室親衛隊とはぐれたルシファーは、独力で退避する途中、敵である海人の特殊部隊に運悪く遭遇してしまったのだ。
相手は戦士。天人国王都・連翔の中枢部まで進攻してきた強者たちの集まりである。
彼らは明らかに王族と“法願使い”を狙って動いていた。貴族的な外見特徴を見事に備えたルシファーが見咎められたのも無理はない。
何しろ敵本拠地の奥深くで刃を揮うほどの実力者たちだ。いかに法願使いの末裔とはいえ、本格的な訓練を始めたばかりのルシファー程度では渡り合えるはずもなく……脅威と見なされ狙われていた法願使いの少女は、非戦闘員となんら変わらぬ無力さで身柄を拘束されてしまったのだった。
「間違いない、天人王の娘だ」
ぐったりと四肢を投げ出した少女を腕の中に見下ろして、海人の指揮官が呟いた。その襟元を彩る印章。人魚を模した階級章だ。ひときわ優美に輝いている。
「天人王の……、ではこの娘が例の“法願使い”ですか!? 要人がなぜ独りでこんな場所にいるのでしょう?」
「天人王の長姫。天女の末裔」
部下の声など耳に入らぬ様子で、海人の指揮官は独りごちた。
長年の願いに手が届く喜びと、敵の王族とはいえ幼い少女への罪悪感。ふたつの感情の狭間で胸が軋み、声を震わせている。
「これで……やっとあの子を解放してやれるんだ」
かすれた呟きは、戦場の風にさらわれて空に溶ける。
乱れ落ちた純白の羽根が、大地を雪のように飾っていた。
*
「ん……」
ゆるゆると意識が浮上してくる。
身じろぎした拍子に、ひやりした硬質の感触が頬に当たった。驚いて目を開けてみて、それが自分の両手を戒める枷だと悟ると、ルシファーは寝台の上に跳ね起きた。
(そうか……捕まって、っ……!)
寝かされていたのは今まで一度も見たことのない部屋だと、一瞬で理解できた。
三方を石造りの壁に囲まれた牢だ。鉄格子が嵌められ、燭台にはか細い炎が揺れている。
(ここ、どこだろう?)
生まれ育った城なら次の間に控えている侍女を呼ぶところだが、海人兵に襲撃され、気を失っている間に連れてこられた場所だ。海人の勢力範囲内であることはまず間違いない。迂闊に声を出すような真似は避けた方がいい、と思い至った。
改めて見回してみると、薄暗くわびしい風情の冷えた場所だが、据え付けられた寝台はきちんと整っているし、蝋燭や水差しも真新しい。全体的に手入れが行き届いている気配があった。
特別な捕虜を収容しておくための独房かもしれない。
触れてみたところ壁はたいそう厚そうで、石組みは堅固そのもの。丁重に造られた監獄であることが窺えた。
どこかの城砦か、あるいは海人国の王都青藍にある、王城という可能性もある。
(だとしたら)
最悪だ。一瞬ルシファーの小さな背筋に怖気が這った。
敵兵が自分のことを王族と知った上で拉致してきたのかどうか分からないが、おそらく身元など早晩知れてしまう。令嬢然とした身なりに加えて、天人貴族に多く見られる金髪碧眼、しかもこの顔立ちだ。天人王妃に瓜二つとあっては、しらを切り通すことなど不可能だろう。