夢想百題

008. さらなる力 (2)



「うう……ふらふらする……」
 鈍く痛む頭を押さえながら、フェルンは正門へと向かう。
 城の外に続く通路には、仕事を終えた候補生や専門官の姿がちらほらと見えた。もうすぐ交代の時間だ。急がなくては。軋む身体に鞭打ち、フェルンが歩を速めかけた時。
「フェルンだー!」
 不意に背後から声がかけられた。ふらりと振り返ってみれば、見知った人影がひとつ。
「今からお仕事?」
 手を振ってこちらに歩いてきたのは、同期候補生の少女だった。夕陽に色づく長い銀髪、アイスブルーの瞳。涼やかな外見なのだが、不思議と冷たい印象はない。ぱたぱたと駆け寄ってくる様子は、まるで子犬のようでもあった。
 彼女──ルリアは、首を傾げてフェルンを覗き込む。
「あれ? なんかすごく疲れてるけどどうしたの?」
 不思議そうに問われて、思わずフェルンは口篭もった。
 疲労の原因は二つある。一つは期限の迫った課題。だがこれはささやかなものだ。問題なのは、もう片方の原因。
 フェルンが告白した相手は、畏れ多いことに高官だった。
 ガーベ・アルメー・セリーザ。肩までの銀髪と真紅の瞳がひどく清雅な女性。全ての軍武官を取り仕切る最高責任者、軍武官長閣下である。
 ガーベルティーナの月──月姫と呼ばれる彼女には、当然ながらファンが多い。一介の候補生でありながら、ちゃっかり彼女の恋人に収まったフェルンに対し、熱狂的な月姫ファンが黙っているはずもなく、かくして闇討ちラッシュが始まった。
 中でも特に怒り狂っているのが、月姫の実兄ツァオバー・イレインである。妹を溺愛しているイレインにしてみれば、どこの馬の骨とも分からないフェルンなんぞ、妹に纏わりつく悪い虫以外の何物でもない。城内で出会うたび、イレインは子どもじみた嫌がらせをしてくるようになった。
 いつ襲撃があるか分からないとあっては、おちおち眠ってもいられない。そんなわけで、フェルンの寝不足と神経衰弱は、告白当日の夜から続いていたのである。
 そんな理由には全く気づかない、のほほん天然娘ルリア。心底不思議そうにこちらを見ているが、彼女に事情を説明するには、残り少ない気力をかき集めねばならない。なんだかもう、フェルンはため息しか出てこなかった。
「いやぁ……まあ、色々だな」
 などと言って、お茶を濁してしまった。ついでに話を逸らす。
「神務官長閣下にお会いしたのか?」
 ルリアは、神務官長ガーベ・ハイリヒ・ザイスの恋人だった。
 いつも優しい笑顔を浮かべたザイス氏は、柔和な好人物である──表面上は。彼の内実は、語るのも憚られるほど色々な意味で恐ろしい、らしい。
 『らしい』というのは、深く踏み込もうとした者は例外なく城を去る結果になるため、確認が取れないのである。
けれどもルリアは、そんな噂にも怯まなかった。恐れを知らず、果敢に彼への想いを告げ……見事、ルリアはザイスの『彼女』に昇格した。ルリアがチャレンジャーと評される所以である。
「うん! さっきねぇ、会ってきたの。なんだか、今日はとっても優しくて、帰りににっこり笑って『元気爆発栄養ドリンク』までくれたんだよ〜?」
 この上なく嬉しそうに語るルリア。
「元気……爆発?」
 胡散臭い名前だ。怪しい。露骨に怪しすぎる。しかもその出所はあのザイスである。何か良からぬ企みがあるに違いない。
 なのに、なんの疑問もなく話すルリアを見て、フェルンはさらに頭痛がひどくなるのを自覚した。
 顔をしかめるフェルンを見上げて、ルリアは言った。
「あっ、そうだ。これフェルンにあげる。なんだか、いっぱいあるみたいなこと言ってたし。倒れたりしたら大変だもの!」
「いや、そんな怪しいモノ飲んだら、余計にぶっ倒れそうなんですけど」
 とは言えず、手渡されるまま、フェルンは怪しい飲料を受け取ってしまった。
「あ……ありがとぅ……」
 ルリアは真面目に心配してくれているのだ。それはありがたい。本当にありがたいのだが。
「フェルン? 本当に顔色悪いよ? ちゃんとそれ飲んでね!」
 真摯な目で見つめられて、結局何も言えないフェルンであった。
 じゃあ私帰るね、とルリアは踵を返し、ふと思い出したように呟く。
「あっ、そだ。明日ちゃんとザイス様に言わなくちゃ。フェルンにあげちゃった、って」
「ええっ!?」
 狼狽するフェルン。血相が変わったのが自分でも分かった。ちょっと待って、と引き留めようとしたが、もう遅い。ルリアはあっという間に見えなくなってしまった。
 取り残されたのは、先程より顔面蒼白度が上昇したフェルン独り。