月明かりの晩が嫌いだった。
地上に降り注ぐ月光は、そう、容赦がないから。
暗がりに溶け込むようにして眠るひとときだけ現実を忘れられるのに、冴え渡る月は清らかな光で人の弱さを暴き立てる。
嘲笑うように、憐れむように、苦悶に震える小さな魂を、安らぎの闇から切り離していくのだ。
独りきりで目覚めた真夜中、窓から煌々と差し込む月光を目の当たりにしたとき、真っ先に感じたのは絶望だった。
両親と妹の姿が消えた家。悲嘆と怨嗟に苛まれる日々。
全身に巣食う痛みは年月を経るごとに耐えがたく膨れ上がっていく。
ようよう呼吸ができるのは、漆黒の夜闇に包まれてまどろむ時だけ。
なのに──
渦巻く想いはどれひとつとして言葉にならない。
寝台から滑り出て見上げた空には、満ちかけた銀月。無数の星々を従えて闇を圧し、世界を冷厳と支配している。
ついこの前は猫の爪のような形だった。今はもう望に近い。
──ミレイの時間は永遠に止まってしまったのに──
幼い妹は奪われた。この家でゆっくりと重ねていくはずだった年月は、無残にも断ち切られたのだ。
衝動的に込み上げる声なき叫び。
厚手の窓掛けを荒々しく閉めて、やっとのことで絶叫を噛み殺した。
窓に背を押しつけ、辺りにわだかまる暗闇へと意識を広げる。
虫の声もない深夜。静寂に浸された一軒家。
受け入れられるはずのない事実に、そうしてハルイは長いあいだ全身全霊で抗い続けてきた。
血を吐くような想いを抱えながら、十年もの間。
たったひとりで。
──… * * * …──
薄い窓掛けが、宵入りの風に翻る。
昼のあいだ一帯を覆っていた熱気は、名残を惜しみながら遅い日没を追って立ち去っていく。
短い夏の夜。簡単な食事を終えたハルイは、風に乱れた窓掛けを直そうと腰を上げた。
窓の外が、思いのほか明るい。
濃紺に染まった夜空。一面に瞬く幾千万の星と、そして目を瞠るほど鮮やかな、月。
裏庭から家の脇にかけて植えられた白連花の群れが、月明かりの下でほの青く浮かび上がっている。
家臣にかしずかれる女王。と、一瞬頭に浮かんだ印象は、すぐに打ち消された。
久しぶりにまともに見つめた月は、もっと深く、意外なほど柔らかかった。透明でやさしく、まるで離れていても信じられる古い友のような親しみが、ごく自然に感じ取れたのである。
月が、余すところなく見ていてくれる。全部。悲しみも苦しみも、憎悪を育んだ醜い心すらも。
目が離せない。思わず呼吸を忘れた。
あれほど嫌いだった月に見入っていたことに気付いたのは、大きな風が再び窓掛けを舞い上がらせた時だった。
(ああ、そうか)
不思議なくらい、胸に染み入る。理解できる。もう意固地になって月を避ける必要はないのだと。
暗闇と自分とを切り離す刃に怯える日々は、音もなく終わりを迎えようとしているのだろう。
その証しに、視線を転じれば、真新しく土が盛られた植え込みが見える。
弔いの白連花ばかりを咲かせていた庭に、別の花の種を植えてみる気になったのはつい先日のこと。この十年、決してあり得なかったことだ。
きっかけは、考えるまでもなかった。
『忘れない』
もたらされた影響は、きっと、自覚しているよりもずっと大きい。
年下の少女と交わした約束。
それは太陽ほどまばゆく輝くものではないかもしれないけれど、この月光に似て、静かに心に寄り添ってくれる大切なものだった。
繰り返し思い出す。
墓前に膝をつき、深々と頭を垂れる姿。「あなたのご家族の横死は、先代の大公陛下が引き起こしたことだから」と言っていたが、その真意を聞き出せないまま別れてしまった。
朝靄けむる渡河場。まっすぐに見つめてきた両の瞳は、混じりけのない春の青空の色をしていた。
幼く、だからこそひどく真摯だった金髪の少女。
ハルイは胸を押さえた。
自分の奥深いところで、頑なに凝っていた真芯が少しずつほぐされていくのが分かる。ひたひたと滴り落ちて、ぬくもりが花開くように満ちていく……。
彼女もこの月を見ているだろうか。
胸の中で、ハルイはそっと少女の名を呼んでみた。
END