暦を遡ること
幾百年。額田部の女君の御代のこと。
ひとりの稀有なる巫女がいた。
幼いながらもたいそう霊験あらたかで、小さな村の中はむろんのこと、近在でもその存在を知らぬ者のない
御巫であったという。
神へ捧げる神楽を舞い、病気平癒の祈祷を行い、折々の吉凶を占う。そして何よりも重要な役目が、神の声を聴くこと。神託を授かり、雲上より賜った言葉を人々へ伝えることだった。
数多の威霊と共に在った神代はもはや遠く、ヒトが地上に取り残されて久しい。年月を経るにつれ、神霊の声を聴ける者は減っていく一方。
しかも、俗世の穢れに身を浸せば神の声は遠ざかる。託宣を得るためには、資質に恵まれた御巫が厳しい修行を重ねた上に、特別な清浄さを常に保たねばならないのである。
そうした背景から、力のある御巫は中央に召し上げられてしまう場合が多かった。ひなびた寒村に託宣の巫女がいてくれるというのは類まれなる僥倖だと、村中の者が鎮守の森に住まう幼い巫女を崇め奉っていた。
尊く神聖な巫女が人前に姿を見せることは滅多になく、村人たちにとっては都びとよりも近寄りがたい、半ば雲の上の存在であった。
──ただ一人の例外、人形師の青年を除いては。
その者は人形師の家系の跡取りだった。成年に達する頃にはすでに一人前の職人として周囲に認められていたというのだから相当の腕利きだろう。
物心つくより先に見よう見まねで泥をこねて人形を作っていた彼は、それが生来備えていた本能であるかのように人形を作り出すのだ。呼吸をする、食事をとる、人形を作る。彼にとってはどれもごく自然の行いであり欲求でもあった。
そんな青年は年に一度、寝食を惜しんで特別な人形を作る。
時を費やし技術の粋を尽くし、とり憑かれたように熱意を注いで……そうして生み出されるのはとびきり精緻な少女の人形。巫女に捧げるための特注品だった。
神託を賜るには並はずれた清浄さを維持しなければならない。だが、いかに禊を重ねようとも、生身の人である以上は気づかぬうちに穢れが少しずつ蓄積されていく。これはやむを得ないことだ。
ゆえに巫女は年に一度、穢れを人形に移す。
彼女に似せた形代に穢れを集め、忌みものとなった人形にしかるべき処置を施すことで、巫女の身の清浄さを取り戻すのである。
そうして巫女は神に仕え、青年は人形を作り、村は何年も平穏そのものだった。
けれども変化は音もなく忍び寄る。
巫女に似せた人形を精魂込めて作り続けるうちに、人形師はいつしか巫女に格別な想いを寄せるようになっていった。巫女のほうでもまた同様に。
巫女と人形師。一年に一度、人形を奉納する刹那にのみ顔を合わせる間柄である。
御簾越しに形式的な口上を短く言い交わすだけのひとときを、双方が密かに待ち焦がれるようになった。
神託を授かる身に私情は御法度。交わらぬはずの道。禁忌であると知りながら、けれども魂に生じた共鳴を打ち消せない。二人の自制心を嘲笑うかのように、言葉で伝えずとも育まれてしまう奇縁がそこにはあった。
月日と共に瓶の底でひっそりと熟成していく果実にも似た、密やかで艶やかな想い。
互いに決して口外できぬ感情を秘めたまま、年月は粛々と過ぎてゆく。
青年は巫女への思慕を物言わぬ人形へと注ぎ込み、彼の作品たちはますます霊妙な存在感を増していく。あまりの鬼気迫る美しさに、神業の人形師と評判が立つほどであった。
その一方で、人形に込められた想念に気づいた巫女は、やがて穢れを移した人形を処分することができなくなってしまう。
祓いの儀式は焚き上げ──穢れを宿した形代を清めの炎で焼き、その灰を神域の小川に流して完了となる。焼くことはおろか、巫女は穢れを人形に移すことにも強い拒絶反応を示すようになった。
神に仕えることを唯一無二の使命として生きてきた巫女である。慕わしさを完全に封じ込めることも、さりとて二人手を取り合って出奔することも叶わず、ひどく苦しみながら、なおも青年の作り出した人形を忌みものとして扱えない。
そこからの転落は早かった。
託宣は間遠になり、神の声はふつりと途絶えた。連鎖するように田畑の不作が続き、近辺には夜盗が現れるようになった。街道を行き来する行商人の足は遠ざかり、あっという間に小さな寒村は飢饉に瀕していく。
追い詰められた村人はいっそう巫女へと縋り、不安を和らげてくれる神託を待ち望むようになった。最後に残された希望の光を掴もうと鎮守の森に押しかけ、神々ではなく巫女当人に奉納品を捧げようとする有様。暴動寸前の混乱に陥ったという。
それでも穢れを孕んだ巫女は役目を果たせなかった。
巫女の不調の原因が人形師であると、最初に誰が言い出したのかは分からない。だが、極限まで張り詰められていた村の空気は一気にその噂で染め上げられた。神託という道しるべを失うことを人々は恐れ、否定し、ついには怒りが弾けた。
無残に変わり果てた人形師の亡骸が打ち捨てられたのは、曼珠沙華の咲き乱れる畦道だった。
荒れ果てた田の端、糸の切れた絡繰り人形が真紅の絨毯に横たわっているようにも見える光景だったという。