夢想百題

021. 奇跡 (2)


 クロノス様――あの御方には打ち明けられない。
 ただでさえ地位と立場に縛られて、父王との確執が絶えない彼の苦悩を、これ以上増やすことなど一体どうしてできようか。
 あの御方はただの貴族ではないのだから。いずれ正妃を迎えて海人王に即位する人が、なんの後ろ盾もない花珠の娘を妃嬪(ひひん)に列するなど、到底あってはならぬこと。王族の本流に下層の血が入ったとなると、他国に侮られる格好の材料だろう。
 国民の一人として断言できるのはそれだけだった。
 そして一人の娘として断言できるのは、懐妊を打ち明けたなら、彼は自分を王宮に迎えるために手を尽くすだろうということ。
(わたしたちは違う海流の中にいるんだって、最初から分かっていたのに)
 掌をそっとお腹にあててみれば、小さな命への切実な愛おしさがこみ上げてくる。
 他の何にも代えがたい光が、今この身体に宿っているのだ。
(……ごめんなさい、クロノス様)
 もう、逢わない。
 哀切さを帯びた決意が、胸の奥底に沈んでいった。


 深い追求をすることなく、座長はティレニアの意向を受け入れてくれた。
 似たような経験のある女衆は以前にも増して細やかな気遣いを見せ、事情に頓着することなく世話を焼いてくれる。
 そのおかげか、あれほど戸惑ったのが不思議なくらいティレニアの心は凪ぎを取り戻していた。
 青藍を発つことになったら必ず連絡するという約束を放り出し、黙ったまま姿を消した自分を、あの御方はほんの少し憎んだかもしれない。それ以上に、さぞかし物寂しく思っただろう。
 分かってほしい、などとはとても言えない。ただ忘れてくれればいいと願った。女の身勝手だと自覚していても、そう願わずにはいられなかった。
 生まれてくるのは双子だろうか、三つ子だろうか。あの御方の子どもたちを宝のように育てたい。

──… * * * …──

 青藍から遠く離れた北の街で、ティレニアは産み月を迎えた。
 季節は月の冴え渡る秋。
 身重のティレニアを気遣って、地元の豪商人が産婆をつけてくれた上に、一座の中には出産経験者が何人もいる。心細さを噛みしめることもなく、心静かに来るべき日を待っていればよかった。

 そして、やがて。

 「おや、まあ……」と言ったきり絶句して、産婆の手がとまる。
 難産だった。身体中が熱い。内側から発火する錯覚さえ覚え、苦しみの数時間が果てしなく長く感じられた。
 朦朧とする意識の中で、産婆の異変を視界の端にとらえながらティレニアは悟った。
 生まれたのは双子でも三つ子でもない。産屋に響いた泣き声は、ただひとつきり。海人にはひどく珍しい、独り赤子。
 衝撃を受けなかったはずがないのに、立ち会ってくれた姉たちはすぐ我に返ったようだった。彼女らが手際よく赤ん坊を清め始めても、ティレニアの息は乱れたまま一向に整わない。
 お産とはこんなにも苦しいものなのか。目はかすみ、言うことをきかない身体がもどかしい。浅い呼吸を繰り返しながら、懸命に我が子の姿を求めた。
 生まれてきたばかりの赤ん坊は、それこそ火がついたように泣いている。大粒の涙をこぼし、無心に声を上げて。
(わたしの赤ちゃん、元気に泣いてる)
 産声は、小さな命が生きていくことを選び取った証し。いつしかティレニアは堪えきれずに頬を濡らしていた。
 なんて一途に、怖れげもなく生まれてきてくれたのだろう。
 なんて尊い……愛おしい子。
 姉たちに支えられながら腕に抱いた瞬間、緩んだ涙腺はもうどうにもならなくなった。
 澄んだ涙をためて見上げてくる蒼氷色の瞳。脳裏に面影が翻る。懐かしい色。色褪せぬ想い。
 優しく自分を見つめてくれた人と、同じ色の双眸だった。


 男の子につけられた名前は“エーギル”。
 その日のうちに名づけたティレニアは、以来かたときも傍を離れようとせず、祈るように我が子を慈しんだ。
 別れが訪れる日まで、全力で愛情を注ぎ続けた。

 ──この子はわたしの宝。この子を授けてくださった奇跡に感謝します──



イラスト:こひ様


END