夢想百題
022. 日常風景 (2)
唸りをあげて振り落とされる剣撃。
今のいままで静寂のただ中に対峙していた両者は、一転して烈しい打ち合いを繰り広げています。
二人が地を踏みしめるごとに舞い上がる砂埃。一般兵たちの姿は遠く、風に乗って彼らの掛け声が聞こえてくるのみ。
尚香さまと刄を合わせているのは趙雲将軍。劉備さまが三人目の弟のように頼みにしておられる武将で、お人柄は温厚篤実、忠義に厚く、その強さは劉備軍の要とも敵兵を貫く大槍とも言われている御仁です。
何度見ても驚きを隠せません。剣を振り切るときの鋭さといい、無駄のない身体さばきといい、勇猛果敢な孫呉の将兵たちと比べても全く遜色がないのですから。いえ、呉に一体何人これほどの熟練の勇将がいることでしょう。
そのような筋金入りの武官の方が、鍛練とはいえ主の正室に剣を向けているのですから、私にとっては二重に驚きなのです。
いくら実戦では遊撃部隊を率いていた弓腰姫とはいえ、ただの鍛練に白刄を用いるなんて、しかも相手は音に聞こえた趙雲将軍だなんて……と、もはや毎度のこととなりつつある今でも私は気が気でなりません。
けれど尚香さまはそんな私の心配をよそに、熱心に打ち込んでは思い切りよく動き、豪傑の武将を相手に実に生き生きと立ち回っています。
趙雲将軍の剣を受け流して反撃に転じたときなど、手合せを見守っている人々の間から思わず感嘆の息が漏れたほどでした。
「さすがは孫夫人、素晴らしい敏捷さですね」
「あら、ありがとう。いくら将軍でも手加減してると痛い目みるかもしれないわよ?」
「心してかかりましょう」
噛み合った剣越しにそんな言葉を交わして、二人は互いに大きく飛び退きました。と、そのとき。
「尚香、子龍。そのくらいにして少し休んだらどうだ?」
横合いからかけられた穏やかな声。執務に一区切りついたのでしょう、劉備さまの姿がありました。
執務中であっても、ゆったりした袍(に身を包んでいても、長いこと苦楽を共にしてきた愛用の剣を必ず帯びている劉備さま。気さくに皆に笑いかけるそのご様子は、まさに寛大な殿様そのもののように見えました。この公安の地を統べる者、といった貫禄があるのです。
赤壁戦後のどさくさに紛れ、公安を拠点として荊州南部を押さえ込んだ抜け目のない男。曹操に対する先鋒としての、さしあたっての同盟者。
当初は先入観があった私の目から見ても、劉備さまは人望が集まらぬはずのない立派な御方でした。誠意のかたまりのような物腰でありながら押し出しもよく、自然と人を惹きつけるのです。
「玄徳様!」
ぱっと輝くような表情で尚香さまは劉備さまに駆け寄り、対照的に趙雲将軍は武器を降ろして丁寧に一礼しました。
「精が出るな。稽古の邪魔をしてしまったか」
「いいえ、ちっとも。来てくださって嬉しいわ」
先ほどまでの緊迫した空気はゆるりと解け、ご夫婦の周りから柔らかな雰囲気が広がっていきます。
尚香さまを見つめる、劉備さまの眼差しのその優しいこと。歳の離れた妻を愛しいと思っておられるのは一目瞭然でした。
時間が空くたびにこうして尚香さまのもとを訪れて他愛のない話に興じる劉備さまは、政略上の駆け引きを超えて、嫁してきた年若い公主を心から大切に思っておられるのだと……今では私もそう信じられるようになったのです。
漢王室に連なる出自であることから、劉皇叔(と呼ばれ慕われている劉備さま。
民草の心を掴んでやまないその理由は、元をただせば高貴な血筋、などということではなくて……
この城内でしばらく生活していれば自ずと知れましょう。尚香さまを包み込むあの眼差しの暖かさが、何よりも雄弁に物語っているではありませんか。
ごく自然に手を取り合ったご夫婦は、ゆっくりと東屋(へ。
私は先に立って茶器の用意を始めました。
「玄徳様、明の淹れてくれるお茶はとっても美味しいのよ」
「そうか、それは楽しみだ」
「明はね、料理もすごく上手なの。ときどき厨房を借りて簡単なのを教わってるんだけど、わたし、兄様直伝の野戦料理しかしたことなかったから、難しくって」
向かい合わせに座ったお二人は、恐縮しながら給仕をしている私に楽しげな表情を向けます。
「おお、野戦料理か。いいな。今度、食べさせてくれぬか?」
「えっ、ほんとに?」
「南の牧場まで遠駆けしたときがよいだろう。豚がいるし、香草にも岩塩にも困らぬからな」
「嬉しい、楽しみだわ!」
「私も楽しみだ。早く執務を片づけてしまわなくてはな」
遠駆けと聞いてにっこり微笑んだ尚香さまと、そんな彼女を穏やかに見つめる劉備さま。お茶を口にするご夫婦の姿には、見る者の胸を少なからず打つものがありました。
あの日、憂いを帯びて笑った尚香さまが、今はこうして夫君の傍で安らぎを見出しているのです。身近に仕える者として、これ以上の喜びがあるでしょうか。
私は願いました。どうかこの幸福が続きますように。尚香さまの笑顔が陰りませんように。どうか乱世に、今しばらくの平穏を。