夢想百題
023. 宝物 (2)
薄暗い居室に戻ると、クロノスは耐えきれずに両手で顔を覆った。
次期国王という立場に相応しい豪奢な居室の中、独りきり。掌の下では無表情の仮面が歪んで崩れ落ち、震える唇から何事かが小さく紡がれる。
(ティレニア、ティレニア……っ!)
優しい面影が脳裏に満ちる。鮮やかに広がり、うねり、北海の荒波のように狂おしく胸を穿つ。
夢に現に、その名をいったい幾度なぞってきたことか。そのたび切ない痛みに深々と飲み込まれ、なのに未だ慣れることがない。
陽だまりのような愛しい娘。何も語らずにこの腕からすり抜けていった、かけがえのないぬくもり。
クロノスは、姿を消した彼女を追い求め、数年かけて花珠の一座を探し当て……そうしてあの子に出会ったのだ。
面差しは彼女に似ている。頬に落ちかかる髪質も、珊瑚や真珠がよく似合っていた彼女にそっくりだ。そして両の瞳はクロノスと同じ、冴え渡る蒼氷色。
ティレニアが産んだという男の子を一目見て、染み入るように悟った。
なぜ彼女が一言も告げずに行方をくらましたか。彼女がどのように考えを巡らせ、何を憂えたのか……。
彼女の心根が愛おしかった。その思いやりが、胸にどうしようもなく痛かった。
そして無心に自分を見上げてきた幼子から、目をそらせなくなった。気づいたときにはもう、しっかりと胸にかき抱いていた。
(すまないティレニア、エーギル──)
渋る一座の皆々を説き伏せてエーギルを城に連れ帰ったというのに、世継公の庶子として教育するどころか、父王マクリルと姉レアの強固な拒絶により、忌み子の烙印を押され幽閉されてしまったのだ。
母親であるティレニアの身分が低かったこと。クロノスを遠ざけ、与り知らぬところで子を産んだこと。これらの理由を言い張って、クロノスの肉親はエーギルの存在を頑なに認めようとしなかった。その結果があの牢獄だ。
エーギルに双子の兄弟がなく、独りきりで生まれてきたというのも一因だろう。多胎出産が常の海人の間では、独り赤子は不吉だとする風習がまだ根強い。
父王と姉をねじ伏せるだけの力は、クロノスにはなかった。
(どうすれば……どうすればあの子を牢から出してやれる?)
ティレニアが産んだあの子を、我が子を、宝のように育てたい。
王統を継ぐことよりも、エーギルと二人、どこか遠くで静かに暮らしたい。
(私は、どうしたら)
けれど、身重の体で王都を離れていったティレニアの心情を思うと、世継公としての立場を放り出すことなどできるはずがなかった。
彼女がそうまでして守ろうとしたのは、畏敬されるべき王家の風評であり、世継公という重責を背負ったクロノス自身なのだから。
(ティレニア……)
こんな自分に一体なにができるのだろう。目の前に浮かぶ愛しい娘の幻影は、ただ揺らめいて微笑むばかり。
薔薇色の唇は、もう、歌わない──。
静まり返った部屋は光の届かぬ深海のようだ。牢獄に囚われた息子を思い、クロノスは拳を握りしめた。