夢想百題

023. 宝物 (1)



 牢獄。罪ある者を収容しておくための施設。
 いかに衛生的に手入れが行き届いていようが、生活に必要な調度品が品よく整えられていようが、燭台の炎がほの赤く照らし出したそこは、まさしく牢獄であった。
 閉鎖され、風が絶え、陽も届かぬ冷たい場所。まるで祟る魂を祀った廟堂(びょうどう)のような。
 一国の王城の深奥部に、牢獄や地下牢が設けられていること自体はさほど珍しくない。政治的に極めて重要な捕虜や犯罪者などを閉じ込めておくのに、王城ほど堅固で都合の良い容れ物はないからである。
 けれども、海人国のこの牢獄は、たった一人を閉じ込めておくために作られた特別なもの。収容されている人物の年齢と素性、どちらを取っても異例としか言えない、口の端に乗せることすら躊躇われるような、一種の禁域となり果てていた。
 そんな場所へと足を踏み入れたのは、すらりと背の高い男性。まだ若いが、少年時代の名残はもはや見当たらない。切なげに細められた両の瞳は、息をのむほど冴えた蒼氷色。
 無言の命令で牢番の兵士を下がらせると、男──クロノスは慣れた様子でゆっくりと独房へ近づく。鉄格子の向こう側にいる者への細やかな気遣いが、その歩調からは感じられるようだった。
「エーギル」
 鉄格子の前に片膝をついて、そっと呼びかける。いつものように返事はない。ただ、相手が身じろぎした気配が伝わってきた。
 蝋燭の燃えるかすかな音がやけに耳につく。一度目を閉じてから、クロノスは再び独房の中を見つめた。
 小さな人影。伏せられた幼い顔に赤みはなく、華奢な身体を背もたれに預けたまま、眼差しだけがほんの少しこちらを向く。
 王城の暗がりに幽閉されているのは子どもだった。男の子。名をエーギルという。
「エーギル、今日は来るのが遅くなってすまなかった」
 クロノスがその場にのそりと座り込んでも、微笑みかけても、エーギルに確かな反応はない。
 ゆったりと、クロノスは他愛のない話を喋り続ける。鉄格子に隔てられてなどいないかのように、男の子の名前を繰り返し呼びながら。
 ときどき何か質問をすると、本当に稀にだが短い返事が返ってくることがあった。ほんの一言、吐息のような言葉。それでもクロノスは嬉しくてたまらなかった。
 やがて蝋燭の長さが目に見えて変わる頃、名残惜しげに振り返りながらクロノスは牢獄を後にする。
「また明日な、エーギル。何か欲しい物はないか考えておいてくれよ?」
 日課となっている最後の言葉がけ。果たされない願いは音もなく積もり続ける。
 クロノスと同じ色をした双眸が、立ち去りゆく彼を無表情に見つめていた。


 律動的に、高く尖った踵が床に打ちつけられる。
 私室へと戻る途中の廊下、舞踊をたしなむ者特有の足音が背後から追いかけてくるのを聞きつけて、クロノスは無感情に振り返った。
 足音の主は立ち止まらない。繊細なレースの縫い込まれた裾を(ひるがえ)して、クロノスのすぐ目の前まで歩み寄ってくる。傲然と顎を上げ、睨み据えてくるその瞳は青緑色。
 世界に在る五つの種族のうち最も古い歴史と伝統を誇る海人の国の、正統なる世継公であるクロノスに対して、このような振る舞いをする者など城内にただ一人、彼女だけだ。
「また牢獄に行っていたのか」
 苛立ちを隠そうともせず、彼女は吐き捨てるように声を絞り出した。クロノスは答えない。黙ったまま、双子の姉であるレアに視線を返す。
「いい加減にしたらどうだ、クロノス」
「その言葉、そのままお返しする」
 途端、冷ややかな美貌が激情に歪み、王女の瞳に炎が激しく巻き上がる。
 対峙するクロノスのほうは、牢獄でエーギルに語りかけていたときとは打って変わって恬淡(てんたん)、怜悧。
 レアの紅唇から、たまりかねたように鋭い言葉が突いて出た。
「おまえは次の王なのだぞ。誇り高き我らが海人国の!」
「言われずとも承知している」
「いいや分かっていない。自覚があるのなら、いつまでもあの子どもにこだわるはずがない! 親の名すら知れぬ娘が産んだ、あのような忌み子に!」
「…………」
「聞けば、花珠(かしゅ)の娘だったというではないか。夜蝶まがいの真似をしたとしても、下層の者のことだ、誰も咎めなかっただろうな。あれが本当におまえの子であるか、大いに疑わしい──」
「レア」
 名を呼ばれたレアが、思わず怖気を覚えたほど感情のこもらない声だった。
 長い廊下が沈黙に包まれる。内宮の各所にいるはずの下働きの者たちの気配もしない。
 怯んだ姉を見つめて、クロノスはゆるりと口を開く。
「一度きりだ。たとえ貴女であっても、二度目は、許さない」
 はっと見開かれた青緑色の双眸をもう一度だけ無表情に見据えてから、クロノスは踵を返した。
 姉の足音は追って来ない。
 レア=シンゼ=ウィオルロード。
 クロノス=シンゼ=ウィオルロード。
 第二の名を共有する双子の間には、触れられそうなほどに明確な、暗く深い亀裂が横たわっていた。