夢想百題

025. 散歩 (2)


「国史ってことは、ストラス先生だよな。あの御仁は興が乗ると休憩なんて頭から吹っ飛ぶだろ。今日はずっとこもりきりなんじゃないのか?」
「大当たり。朝のお稽古で御苑に出たっきりで」
 一瞬お互いを見つめて、どちらからともなく頷く。
 オレは部屋の外に控えている侍従官に声をかけ、少しばかり二人で散歩に出ると告げた。周囲のほうも慣れたもので、供の者をつけろだのと小うるさいことは言ってこない。国外に出ようというわけでなし、もはや護衛を伴わなければ出歩けないほど物騒な時勢ではないのである。
 凄惨な大戦から八年。天人国だけでなく、世界中が戦後の緊迫感から早くも遠ざかりつつあるのだった。
 それに何より、オレの今の地位は近衛兵団長。宮廷の安全管理を任とする近衛兵団は四軍の筆頭であり、団長はその主席である。王宮育ちではあるものの、その種の専門訓練を受けている現役武官なのだから。
 ルゥの息抜きを大切に考えてくれる侍従官らに快く見送られて、オレとルゥは城を後にした。

──… * * * …──

 ひとしきり風の行方を追って空駆けを楽しんだ後、降り立ったのは王都を遙かに見下ろせる丘の上だった。
「いい風だね。陽射しもあったかいし、身体がほぐれる気がする」
「そうだなぁ」
 円形に広がった端然たる街並みの中央には、さっき出てきたばかりの白亜の王城が見える。ひとっ飛びしただけなのに、ここはもう壮麗な宮中や賑々しい城下町からも遠い。ただ穏やかに風が渡り、緑の下草を揺らしていく。
 東屋(あずまや)ひとつない、手つかずの丘に二人きりで、ルゥは青空に向かって伸びと深呼吸をした。そのまま手足の力を抜くと、オレが草地の上に広げた敷物に腰を下ろす。
 並んで座った二人の間に横たわる、ゆったりと心地よい沈黙。まろやかな形をした群雲が、まるで居眠りをする羊のようだった。
 ルゥの長い髪が風に流れ、光を含んだ金色が躍る。瑞々しい草の青い香り。野花のざわめき。どれもがほんの少し手を伸ばせば触れられるほど近い。
 遮るもののない空の下、こうして静謐な空間に身を置いて、ルゥは束の間くつろぐことができるようだった。
 だいたい常日頃から根を詰めていて、しかもその自覚がないような生真面目さなのだ。幼いうちに両親と兄を亡くして重責を背負ったせいか、己を律する気風がどうにも際立っている。そこが気がかりだった。
 いくらルゥが君臨する者であるといっても、たった一人きりで国を切り回すわけではないし、中継ぎの現王であるオレの父や母が、即位後の彼女を公私にわたって手厚く支える段取りになっているのだ。
 「もっと肩の力を抜いてくれていいのに……」などと寂しそうにこぼす母の姿も目にしたことがある。女同士のほうが気が回るのか、数年前に降嫁(こうか)していった姉たちも、本宮住まいだった頃は無意識に頑張りすぎるルゥのことを何かと気遣っていたらしかった。
 とはいえ、王太子となるルゥが公人として秀でていればいるほど民や執政官が安心するし、あまりにも度が過ぎる没頭というわけではないから侍従官らも表立っては(いさ)めない。そこで従兄であるオレにできることといったら、しばしばルゥの居室を訪れては茶休憩を共にしたり、時折こんなふうにお忍びで外へ連れ出したりと、その程度だったが、当のルゥはいつも無心に喜んでくれる。繰り返すうちに習慣となって、現在に至っているのだった。
 それに……実を言うと、外出はオレ自身の憩いの一時でもあった。
 衆目のない場所なら、一緒になって遊んでいた昔のような振る舞いも許されるから。
 ルゥの頭を撫で、戯れに頬をつまむ。あるいはルゥがオレにじゃれつき、翼に触れる。そうした兄妹のやりとりは、たとえ庭番の小者であっても、もはや余人の目があるところでは自ずと(はばか)られるのである。
 空を越えてきた清澄な風が、音を立てて吹き抜ける。
 気働きのある侍従官が持たせてくれた肩掛けをルゥに羽織らせて、オレはふと気づいた。ルゥの双眸は眼下に広がる城下町に向けられている。近い将来、彼女が守っていくことになる栄光の都。そこに暮らす万民……。
 ルゥは今、何を思って眼差しを注いでいるのだろうか。
 その横顔を見つめるオレの胸中にあぶり出されたのは、かつて立てた誓いのことだった。
 宮廷の警備・警護を一手に取り仕切る近衛兵団長の役職を拝命したとき、密やかに灯した己への誓約。
 飾り物の王族団長には決してなるまい、と。
 終戦間際、囚われていた海人国から救い出したときのルゥの姿が、目の奥に焼きついて離れなかった。
 もう二度とあんな目に遭わせはしない。あの小さかった従妹を、彼女が育んでいく未来を、己の手で守りたい。いなくなってしまった人たちのぶんまで。
 それは紛れもなくオレの根幹を成している、志、だった。