夢想百題
027. 昏き理 (2)
「じゃあ今日はここまで。ちゃんと復習しておいてね」
人柄がにじみ出ているようなのどかな足取りで、定年間際の数学教師が教室から出ていった直後。
「ねえユキ、放課後マック行こうよー」
「金曜だし、今日は課外授業ないっしょ?」
近くの席の友人たちに話を振られて、雪は視線を上に向けて何かを思い出す素振りを見せたあと、いかにも残念そうな声でうめいた。
「ごめん。今日はバイトが入ってるんだ」
「えー。そっかぁ、またベビーシッター?」
「残念だな。今度の新メニュー美味しいのにぃ」
断りの文句を述べた雪の仕草といい口調といい、いかにも女子高生が友達と遊べなくて残念だという雰囲気が、ごく自然に発せられている。
雪に家族がいないことを知っているクラスメイトは、『知り合いの家で子守のバイトをしている』という雪の嘘を素直に信じてくれており、バイトを口実にすればしつこく誘ってくるようなことはない。
担任や生徒指導の教員はもちろん、親しげに言葉を交わす女子グループすら、誰一人として彼女の言葉を疑う様子がなかった。
本当は、任務だった。
都内の一部地域に急速に出回った『ミドリ』というドラッグの、元締めを探り出す潜入調査。≪桜花≫の別働隊が掴んだ情報をもとに、一般人を装って売買仲介人と接触し、情報の裏付けを取るのである。
任務といっても、これは本来なら調査班の専任者たちが当たるべきジャンルのものだ。情報収集、調査、囮、破壊、暗殺。ダーティな仕事は数あれど、「肉は肉屋、魚は魚屋」という方針が≪桜花≫には確固として存在しているのだから。
けれど雪──エーデルワイスだけが例外だった。首領ヒイラギの懐刀として、指令があれば縦横無尽になんでも手がける。いついかなる時も、どんな汚れ仕事でも、ひとかけらの躊躇いもなく。
「また今度誘ってね」
胸中にほんのり宿ったのは、寂寥感。
いつもどおり完全にそれを押し包んで、雪が曖昧な微笑を浮かべると、同級生たちは口々に朗らかな返事をくれる。
そしていつの間にか話題は英作文の課題のことへと移り、他愛ないお喋りは休み時間が終わるまで賑やかに続く。
会話に適度に参加しながら、雪はクラスメイトたちの顔をどこか遠くのもののように見つめていた。近くにいるようでも自分とは絶対的に隔たりがある、同い年の少女たち。
かげりのない彼女らの笑顔が、ひどくまぶしかった。