引き金を引く。三度。
眉間、心臓、腹部。一瞬のうちに急所を撃ち砕かれた中年男は、うめき声すらもらさずに倒れていった。
硝煙の臭い。苦悶の吐息。寝室の小さな灯りのもと、赤黒い染みが床に広がっていく。血だまりからかすかに上がった湯気に、命のありかを見た気がした。
だがそれも痙攣と共に急速に失われていく。不可避の流れだ。眼前に転がっているのは、もうすでに人間の残滓に過ぎない。
硝煙の独特な臭いはすぐに消えた。男が死へのステップを踏んでいく様を無表情に黙視していた少女は、やがて完全に生命反応が途絶えたのを確認すると、何事もなかったかのように踵を返す。
邸宅の周囲は静まり返っていた。三回立て続けに発砲したというのに、物音を聞きとがめた者が存在しない証拠である。≪桜花≫お抱えの銃火器職人が手がけた消音装置は、その性能を大いに発揮してくれた。
少女は仲間があらかじめ確保していた退避ルートをたどる。光源がなくても足取りが確かなのは、夜目が利くよう長年訓練を重ねてきたからだ。闇に紛れ、敏捷に走るその姿は、音もなく滑空する梟にも似ていた。
やがて細い路地を抜けたところで仲間と合流、彼の運転する軽自動車に乗り込む。セキュリティシステム排除のために使ったワンボックスカーは、もう一人の仲間がすでに回収済み。不測の事態は何ひとつない。今回も、すべてが手筈どおりだった。
やがて、夜の国道を彩るテールランプの群れの中へと、車は静かに滑り込んでいく。どちらも無言。ネオンの海に視線を投げ出しながら、少女は途方もない疲労感に全身が蝕まれていくのを覚えた。とうに馴染みとなった、底なしの深淵に沈み込むような感覚。
この件に関して、いくつかの新聞の地方欄に小さく訃報が載るだろうが、死亡した中年男がアンダーグラウンドで一体何をしていたかが表沙汰になることは決してない。同時に、彼の生命を絶った銃弾を手がかりにして、死刑執行者が突き止められるようなこともありえない。
なぜならば、現代の日本社会は『表』の『マトモ』な世界と、そうでない世界とに分離しており、中年男が属していたのは完全に後者──『裏』の『真っ当でない』ほうのテリトリーだったから。
太陽の光が深海領域に差し込むことがないように、法治社会を運営している清明な理が、どす黒く汚濁した地下層の奥深くにまで届くことは、ない。不可能なのだ。
だからこそ、ヒイラギや彼女のような存在が生まれたのだった。毒をもって毒を制する、すなわち、どうあがいても正攻法では手出しできない咎人を暗中にて討つ、いわゆる必要悪として。
無論のこと、義賊を気取って自分の行為を正当化するつもりなど、少女には毛頭ない。どういう動機があったとしても、実際に行っているのはただの人殺しなのだから。
ヒイラギの爪牙として在ること。『エーデルワイス』として生きること。どれほどの呵責に苛まれたとしても、それは少女自身への誓約であり、喜びでもあるのだった。
自ら望んで暗躍を続ける以上、彼女の居場所もまた闇の渦中に他ならない。今しがた命を奪った、あの悪辣な男と、所詮は同じ穴のムジナということだ。法に則って己を律している、至極まっとうな種類の人々とは、根本から住む世界が違うのだった。
『ねえユキ、放課後マック行こうよー』
『残念だな。今度の新メニュー美味しいのにぃ』
少女の脳裏に、同級生たちの屈託のない笑い声がよぎる。残響。思い起こされたのは優しい眼差し。光さす場所。
もしもあちら側の領域に交わって、たとえ仮初めでも安らぎを得たとしたら、それは少女にとって赦されざる第二の罪であった。汚れた身でありながら表社会の人間と友誼を結ぶなど、摂理から外れる振る舞い、禁忌に他ならない。
だから──。
深い大河に隔てられた彼岸はいっそう輝きに満ちて、月よりもはるかに遠い。血と闇と狂気とにまみれたこちら側からは、垣間見ることさえ躊躇われるようだった。
その晩、月は夜通し暗雲の向こうに隠れていた。
END