夢想百題
006. 喧嘩 (1)
「天誅ぅーッ!」
「ぐはぁ!?」
《クリスタロス》三課の事務室──通称、青珠館。
その日エルガーの朝は、脳天めがけて降ってきた鉄拳によって始まった。
「な……何すんだよいきなり!?」
エルガーは後頭部を抱えて振り仰ぐ。
彼の真後ろ、襲撃者は堂々と仁王立ちしていた。視線が噛み合う。漆黒の双眸は、険悪にこちらを睨みつけていた。腕を組んだ仕草から、相当に立腹しているのが分かる。
「のんきに欠伸なんかしてるんじゃないわよ」
眉間にシワを寄せて言い捨てたのは、すらりと背の高い女、ティキュだった。エルガーより二つ年上で、三課の先輩に当たる。新入りの頃、担当指導員係の彼女には色々と世話になったものだ。そのおかげで、今ではすっかり彼女の人となりを把握しているエルガーだった。
「なんだよ、朝っぱらから」
第二撃を警戒しながら言い返すと、ティキュの垂れ目がキッと吊り上がる。この時点で、エルガーの隣席で仕事をしていた事務職員は、素知らぬ顔して退避を始めた。
「なんだじゃないでしょ。胸に手を当ててよーく考えてみなさい」
と言われても、エルガーにはなんの事やらさっぱり分からない。ティキュは今にも再び鉄拳を繰り出しそうな剣幕だ。彼女は身体をよく鍛えている上に、大変な馬鹿力の持ち主である。鉄拳を二度も食らってはたまらない。エルガーはしぶしぶ記憶を探ってみた。
最近の行いの中で、ティキュの怒りを買いそうなことといえば。
「……諜報活動中、飲み屋で盛り上がって、標的人物が正体なくすまで飲ませた件か?」
ティキュは黙って首を振る。
「じゃ、その酒盛り代を経費で落とそうとしたことか」
「経理部から苦情が来てたわよ」
どうやらこれも違うらしい。頭を捻るエルガー。しばし悩んでいたが、はっとして顔を上げた。わずかに動揺の色が浮かぶ。
「まさか! 給料日前、財布が寂しくなるたびに、行きつけの飲み屋で的当ての余興を披露して小金を稼いでるのが、ついにバレちまったか!?」
この発言に反応したのは、向こうで黙々と書類を繰っていた上司だった。
「……エルガー、後でちょっと来なさい」
《クリスタロス》では副業禁止。しまった、と口をつぐむがもう遅い。
「思考をお酒から離しなさい」
ティキュの声音が次第に冷ややかさを増していく。爆発する一歩手前の兆候だ。
「ええと……」
追い詰められて、エルガーは必死に考えた。一体何がまずかったのだろう。普段から品行方正とは言いがたいので、思い当たる節は幾つもある。
思案に暮れていると、ティキュがしびれを切らして口を開いた。
「昨日、遅くまで居残ってたわよね。夜食に何か食べなかった?」
エルガーは虚空を見上げる。昨夜、報告書作成のため、事務室に残っていたのは事実だ。その時食べたもの。
「あー、そういや焼き菓子食べたっけ。美味かったな、アレ。果物がいろいろ入ってて、生地に少しだけ蜂蜜が練り込んであって」
呟いた途端、目の前でいきなりティキュが噴火した。
「そういや、じゃなーいッ!」
朝の事務室に、よく通る美声が響き渡る。突きつけられた指先を、エルガーはぽかんと眺めたのだった。
「あー、面倒くせ」
短い黒髪をがしがしと掻きながら、エルガーは嘆息した。
時刻は夕暮れ時。かげり始めた陽射しの中、周囲は心地良い賑わいに満ちている。
「ったく、菓子食ったくらいで、あんなに目くじら立てることないのによ」
楽しげな笑い声を上げ、主婦たちが通り過ぎていく。飲食店が多い通りである。野菜や生肉といった食材を売る大型店もあるが、小洒落た喫茶店や甘味屋も多く見受けられた。
その中から目当ての店を探し出すと、エルガーは嫌々ながら入っていく。目的は焼き菓子を買うこと。ティキュが自分の夜食用にと保管していたお菓子を、エルガーが無断で平らげてしまったため、弁償を命じられたのである。
なんでも、季節の果物をふんだんに使って作るというその菓子は、近頃女性に大人気の品とのことで、ティキュはひどく楽しみにしていたらしい。それを横取りされて本気で腹を立てる辺り、いくらなんでも大人げないのではと思うのだが、非はこちらにあるので文句は言えない。
しぶしぶながらエルガーは仕事後に外出し、甘味屋で菓子の箱詰めを買った。