夢想百題

029. 外つ国の遺産 (2)



 兆しが、表れた。
 まだ三歳にもならない愛娘が、手を触れただけで他人の傷を癒したのである。
 天人国の王城本宮、内殿の奥に整えられた花見頃の庭園で、王妃は畏怖を抱えて立ち尽くした。
 母親である自分と同じ力。異質なる力の顕現。まだ言葉を紡ぐことすら拙い幼子だというのに。
 あまりに早く兆候を示し始めた娘の姿を、このとき王妃は思いがけず目の当たりにしたのだった。
 庭園で散策していたのは三人きり。王妃と娘と、転んで腕をすりむいた男の子。娘にとっては従兄にあたるその子は、血のにじむ傷口が瞬時にふさがったことに驚き、上気した顔を王妃に向けた。
「伯母上さま、ルゥが! ルゥがさわったら治ったんです。血が出てたのに!」
「ええ、そうね」
 王妃は短く答えるのがやっとだった。
 うっすらと緑がかった優しい色合いの白翼を背に広げ、ジブリールという名の男の子は懸命に状況を伝えようとしてくる。その傍らでは、従兄の興奮がうつったのか、はしゃいだ声を上げて娘が従兄にじゃれついていた。
「ルシファー」
 名を呼べば、澄み切ったあどけない碧眼が見上げてくる。無心の笑み。珠のように無垢で曇りのない、小さな娘。
 この子はまだ何も知らない。
 そう考えた途端、慈しみの情が噴き上がるようにわいてきて、一気に溢れた。
 王妃の一族が太古より血で継承してきた力である。能力者である自分の実子、しかも女子。
 覚悟はしていた。だがやはり怖ろしかった。まして、いくらなんでもこんなに早くこの日が訪れるとは予測していなかった。
「……さあ、今日はもう宮へ戻りましょうね。ジブリール、あとで腕をよく見せてちょうだい」
 内心の動揺を押し隠し、娘を抱き上げてジブリールに目配せする。
 母の腕の中で、娘はさも心地良さそうに目を細め、小さな雪白の翼をゆるりとくつろげた。


 天人とは、すなわち背に一対の翼を持つ者。
 風に乗り、気流を読み、己の身体ひとつで空を駆ける天人は、地上世界に住まう五種族のうち、最も高く速く飛ぶことのできる有翼の民である。“空を往く者”という通称のとおりの人種だった。
 国民性は至って穏和。王と王妃を頂点とした貴顕社会で成り立っており、有事の際には驚異的な団結力を発揮する。全体の調和と秩序を重視し、風雅を尊ぶその傍らで、集団を率いる強健な指導者を希求する傾向もある。
 現在の天人王はセラフィム=ディーク=レグナ=ローランス。三十路に入ったばかりという年若い君主であるが、四軍百官を整然とまとめ上げる手腕を持ち、王弟ミカエルの補佐を受けながら善く国政を切り盛りしている、と、万民からの評判はおおよそ上々だった。
 そのセラフィム王の治世下。アンジェラ王妃はひとつの危惧を抱き続けていた。
 内政向きの難しい懸案でも、なかなか折り合いのつかない外交問題でもない。
 王妃の憂いはただひとつ。己の持つ奇異なる『力』が、王家本流の血脈に陰りをもたらすのではないか、と。
 地中に伸びた大樹の根のように、その心痛は王妃の胸中に深くふかく巣食っていた。華燭の典を執り行ったときから──否、当時まだ王太子だったセラフィムに求婚された少女の日から、ずっとだ。


「そうか、ルシファーに兆しが……」
 そして月日を経て、いま王妃の前で言葉を詰まらせた青年も、その憂慮を共有する者のうちの一人だった。
 明るい金茶色の髪は襟元でさらりと束ねられ、その背中、うっすらと黄みを帯びた双翼の根本へと流れている。男性にしては優しげな顔立ちの部類だろう。身にまとった物柔らかな雰囲気を、涼しげな目元が凛と引き締めている。
 王妃に似通った容貌だった。その青空色の瞳の、右片方が眼帯に覆われていることを除けば。
 青年の名はハールートという。王妃の生家──ティルム氏族の長であり、王妃の実の兄である。
 兄妹の髪が風にそよぐ。湯気が流れた。王妃の住まう月鏡(つきかがみ)ノ宮。露台に据えつけられた小ぶりの卓の上で、手をつけられないままのお茶の水面に、ひどく悲しげな面影が映っていた。
「確かなことよ。転んですりむいた子の傷をね、癒したのです。なにげなく触れただけで」
 静かに告げて、王妃は兄の顔を見つめた。眉間に寄ったしわと、硬く引き結ばれた口元。暗雲に閉ざされた表情を互いに目視しあって、兄妹は同時にそっと息を吐いた。痛みに耐えるように、わずかに目を細めて。