土埃。苦悶の声。
不意に、風が吹き抜けた。木の葉が舞い散る。
夜闇が染み込み始めた黄昏時の冷風は、葛葉の編み笠をいたずらに取り上げた。覆い隠されていた素顔が、衆目にさらされる。
「ひぃっ……!」
「目が、あの女、目が金色に光ってやがる!?」
「ありゃ人じゃねえ、人妖だ!」
山賊連中に激しい動揺が走った。暮れなずむ深い山の中、一同は葛葉の浮世離れした容姿から目をそらせなくなった。
長い銀髪は風に揺られ、うっすらと緑白の光沢を放つ絹のようだ。凛と涼やかに辺りを見渡す双眸は琥珀金。優美な絵図の施された鉄扇、それを構える手の指先に至るまで、まばゆいばかりの力と躍動感に満ちている。
旧時代の大妖、いくつもの王朝を意のままに操ったという傾国の妖后・
蘇妲己に並ぶと囁かれた葛葉の美貌である。武官のような動きやすい袴を履いた男装であっても、周囲を照らすような華やかさは損なわれることなくそこに在る。
天狐族の特徴的な耳や尾は、人間に見咎められることのないよう術を施して隠してあったが、それでも彼女の圧倒的な存在感と華やかな気配は、まさしく人外のものに他ならなかった。
人妖の住処はどの地域にも点在している。が、人間の街里とは離れた山奥や樹海、離島などで慎ましく暮らしているのが一般的で、争いごとでも起こらない限り、人間と接触することは稀である。人のかたちを取っていないモノノケの類と違って、人妖は他愛ないいたずらを人里に仕掛けて遊ぶこともない。そんな遠い存在である人妖を突如目の当たりにして、山賊たちが度肝を抜かすのも無理はなかった。
編み笠は風にさらわれて高く虚空へ舞い上がる。ふわりと大きく回転して、すぐ近くの大木の枝に引っかかった。
枝といっても、辺りに鬱蒼たる陰影を落とすような巨木である。編み笠が揺れているのは民家の屋根よりもはるかに高い位置だった。
棍棒がうなる。禿げ頭の山賊。いち早く驚愕から立ち直ったらしい。葛葉の注意が編み笠に向けられたのを好機と読んだか、渾身の力で打ちかかってくる。まともに食らえば昏倒は免れない。
清白が反射的に割って入ろうとするが、遠い。間に合わない。鈍重音が響いた。
「……いない!?」
棍棒は土をえぐっただけだった。
「まったく無粋じゃのう」
おっとりした声は、一同の頭上から響いた。
編み笠を手にした葛葉が、山賊一味を見下ろしている。ひと跳びで大樹の枝に飛び移ったのだ。驚異的な身体能力である。
茜色に溶けた太陽が本日最後の光を投げかけてくる中、葛葉はひときわ艶やかに微笑んだ。
「いかにも、妾は
人間(にあらず。使命を帯びての道行きゆえ、取り立てて荒事を起こす気なぞありはせぬ。されど、おぬしらが引き下がらぬというならば致し方あるまい、お相手つかまつろうぞ。明日の暁を拝めぬことになろうとも、それでよいのじゃな」
途端、音を立てて炎が生まれた。忍び寄る夕闇を押し返すように、無数の蒼い火の玉が緩やかな螺旋を描いて葛葉の周りに躍る。異口同音の悲鳴。山賊たちが発した恐怖の叫びである。
狐火に照らされながら葛葉はうっすらと燐光を放ち、扇の端から見え隠れする笑みがいっそう深みと迫力を増す。凄絶なまでの存在感。清白ですら、思わず我を忘れて樹上の葛葉に見入ったほどだった。
「やれ、一度しか申さぬぞえ。警告されてなおも向かってくる輩には一切容赦せぬゆえ──命惜しくば、早う退くがよい」
火の玉が一段と激しく燃え盛る。轟々たる熱風に肌を圧され、盗賊連中は震え上がった。金縛りが解けるや否や、一目散に逃げ惑う。押し合いへし合い、先を争いつつあっという間に全員がその場から姿を消した。
あとに残ったのは呆れたように佇む清白と、闇夜の衣をふんわり纏いはじめた山景色のみ。
葛葉は声を荒げることもなく賊徒を退散させたのだった。
──… * * * …──
「のう、清白。訊いてもよいか?」
沸かした湯を幅広の筒に少しばかり注ぎ、笹の葉にくるまれた
乾飯(を包みごとほぐしながら、葛葉がふと顔を上げた。
ささやかな音と共に、焚き火の中で小枝が爆ぜる。
西空の彼方に夕陽が沈んだのち、二人が腰を落ち着けたのは、山頂を越して下り坂にさしかかったあたりにある大樹の根もとだった。年輪を重ねた山桜だ。星々と焚き火以外に明かりのない夜、白い無数の花房が目にまばゆい。
野宿にはうってつけの場所である。隆起した土手の陰になっており、豊かに咲いた花枝が頭上を覆い隠してくれている。
これだけの規模の山岳なら小川や湧き水がどこかにあるのだろうが、賊徒どもを追い払った時点ですでに日没が押し迫っていたので、大型の夜行獣に出くわす危険性を考えて水場はあえて探さなかった。水浴びをしたかった葛葉としては残念だったが、夜が明けて数刻も歩けばふもとに辿り着くのだから、と、気を取り直して食事と休息を優先させたのだ。
乾飯、漬物、干し肉、甘辛く揚げた煎餅。背嚢から取り出した携行食を手早く広げながら、清白は葛葉の言葉を促した。