「もう夜が明ける。ちと早い刻限じゃが、山を降りて先を急ごう」
清白と頷きあって、葛葉は踵を返した。ざっと土をかけて焚き火の始末をし、
背嚢を拾い上げて汚れを払う。
朝靄けぶる山道は、緩い傾斜で下りにさしかかっている。少し空気がひんやりとして肌寒い。
二人が手早く身支度を整える間も天狗は騒いでいたのだが、まさしく立て板に水だったその声が、不意に途切れた。周囲に押し寄せた静寂が唐突すぎて、葛葉は思わず振り返ってしまう。
にい、と笑っていた。妖術に括られたままの天狗が、さも愉快そうに。
「さてはお前さん……ワシと力比べするのが怖いんだな? んー、そうかそうか。天狐ってのは妖力甚大だって評判だから、いっぺん勝負してみたかったのになー。怖気づいたとは、いや残念残念!」
葛葉だけでなく清白も一瞬言葉を失って、やがて大きな嘆息をもらした。一体どういう思考回路をしているのやら。まともに取り合っていると頭が痛くなりそうだ。
「しっかり縛られておるくせに、よくもまあそんな口が叩けるものじゃ」
「よきかな、よきかな。こう見えてもワシはここ百年ほど負けた例しがないからなっ。うん、無理もねえや」
「捕縛は負けのうちに入らぬのか?」
「なあ葛葉、こういう手合いは相手にしたら負けだと思うぞ」
「承知しておるわ。しかし、どうも聞き捨てならぬではないか」
「無視だ、無視」
「一人が怖けりゃ、そこの若造と二人一緒にかかってきてもよかったんだけどなー?」
「ええい鬱陶しい。話の分からぬ奴め!」
短気を起こした葛葉によって、即座に戒めの術が取り払われた。清白が止めに入る間もない。鴉天狗は宙返りを打ち、興がった大きな動作で身構える。
「勝負だっ!」
──… * * * …──
凪いだ湖面のように静かな瞳で、清白は誰にともなく呟いた。
「火明の里、か。方向は合ってるはずなんだけどな」
「この近くにはなんの気配もないのう。まだ遠いのかもしれぬ」
日が昇り切った頃に山道を抜けた葛葉と清白は、ふもとの
旅籠(で湯浴みと食事を済ませ、足休めもそこそこに再び歩き始めた。
行商人が行き交う街道を外れ、東の方角へ。おそらく宿場もないであろう小さな集落と、手入れの行き届いた慎ましやかな田畑。のどかな風景を横目に、着々と進み続ける。
「なあ、いいだろー? 今度は飲み比べで勝負しようぜ!」
その二人の傍ら。性懲りもなく延々と話しかけてくる人影があった。
「美味い酒だぞ。ワシの秘蔵のやつだからなっ」
何がそんなに面白いのか、上機嫌で二人の前後を飛びまわっては言葉をかけ続ける人妖。
山中で改めて葛葉に一蹴されたというのに、無視されようが小突かれようが、全くもって意に介した様子がない。訊かれてもいないのに
雲取(と名乗った鴉天狗は、葛葉だけでなく清白にも興味を示し、しつこく何やかやと勝負を持ちかけるのだった。
よほど勝負事が好きなのか、あるいは退屈していたのか。どちらにせよ限りなく鬱陶しい。奇妙な人物につきまとわれて、二人は内心途方にくれていた。