獣人の襲撃から一夜明けて。
葛葉と清白おまけに雲取の三人は、鬱蒼とした森の奥深くへと分け入って行った。
刑部姫が持たせてくれた覚え書きによると、この森を越えた先に火明の里があるらしい。一刻も早く、と逸る気持ちをなだめつつ葛葉は歩を進めるのだった。
辺りの木々はどれも悠然と幹太く、葉も艶やかに青い。頭上を覆い隠さんばかりに茂っている。
踏みしめた足元から、土の匂いがかかすに漂った。キノコや野草が豊富に採れそうな森だ。
けれど。
「……いやに静かじゃのう」
時折風が木の葉を揺らす他は、静まり返っているのだ。こういう人里離れた地を好むモノノケたちの声も、鳥のさえずりすらも聞こえない。
ここに着くまでに見てきた、怨霊の毒気で死に絶えた地を思い起こしたが、あれとはまた決定的に違う。この土地は生きている。
まるで森そのものが息を潜めているかのように、奇妙な静寂に浸されていた。
「あー、確かになんか静かすぎるかも。大概こういうトコにゃ、木霊やら鵺なんかが住み着いてるもんなんだけどな」
雲取もぶつぶつ言いながら首を傾げている。違和感を拭えないのだろう。
「そうか。気をつけて進もう」
清白が端的にまとめて周囲を見回した。葛葉も念のためにと浄天眼を使って確認してみたが、目に見える脅威はなかった。今のところは。
重なるように濃く生い茂った木々で空は見えない。ところどころの合間から、朝の陽射しがわずかに差し込んでくるだけだ。
森の広げた腕にすっぽりと包み込まれたような心地がする。
梢を見上げていた視線を戻して──葛葉はうろたえた。
ひどく濃い、霧に、周囲ごと取り巻かれていた。
足元さえろくに見えない。ほんの今さっきまでなんともなかったのに。
いつの間に、と驚くよりも先に不安が兆した。清白と雲取の姿も霧に紛れて見当たらない。
「清白ー? 何やら急にえらい霧じゃのう」
応答はなかった。
ただ冷たい霧だけが静かに押し寄せてくる。
「清白、どうかしたのかえ? 返事をしやれ。そこにおるのじゃろ?」
伸ばした手は空を切った。その指先から見る間に濃霧に呑まれていく。一瞬、琥珀の指飾りが濡れた光を宿した、気がした。
「雲取、返事をせい! 清白!?」
静寂を乱す己の声。怖気が背筋を這い上がる。すぐ傍らにいるはずの二人の気配が、忽然と消え失せていた。
乳白色に染まった視界。誰もいない。振り返っても大声を出しても、独りだった。
「清白ーっ! 雲取! ……なんと。どこへ行きよったのじゃ」
後半の呟きは我ながら弱々しい。唇から滑り出た言葉すら深い朝霧に吸い込まれ、葛葉は立ち尽くした。
──… * * * …──
「面妖な霧だな。さて困ったぞ」
清白は戸惑いを隠せなかった。いきなり霧がたちこめてきたかと思ったら、今の今まで一緒にいた葛葉と雲取がいなくなってしまったのだ。いくら呼んでも応えはなく、手探りで周囲を調べても霧の中に樹木がそびえているばかり。一体何が起こったのか、わけが分からない。
静まり返った森の片隅に、たった独りで取り残されたような錯覚。雲取のやかましさに慣れかけていたところだったせいか、静寂が少し、息苦しい。
それにしても、怨霊封じの旅に出てからこちら、鴉天狗につきまとわれたり獣人が出たり、それで今度はおかしな霧。なんとも忙しい道中だ。
と──
「まあ珍しいこと」
霧とともに忍び寄ってきたのは、湿った隙間風にも似た女人の声だった。
「あなたみたいにお若い人が、こんなところに来るなんて」
ざあ、と霧が流れる。
美しい女だった。気配もなく忽然と現れた人影は、柳のように細くたおやかで、見る者の憐憫を掻き立てる容貌をしていた。
だからこそ不気味と言えるだろう。
旅装でも男装でもなく、普段着そのものである舟型袖に細帯を締めただけの軽装で、おまけに身に纏うものすべてが白づくめ。まるで周囲の霧が寄り集まって人型を成したかのような、得体の知れない女であった。
「ねえ若武者さん、教えてほしいの」
女は、いつの間にかすぐ近くまで来ていた。
「あなた、なぜこんなところにいるのかしら」
まったく口を開かない清白の態度にも頓着せず、霧の化身のごとき女は目を細め、愉しげに問いかけてくる。
「怨霊封じなんて途方もない尻拭いを引き受けるだなんて……それほどの恩義が、本当にあったのかしら。あなたを疎んじた身内に──軍に、郷里に──ねえ……?」
「……っ!」
胸を、抉られた気がした。
歌うように紡がれる言葉が、見えない大蛇となって清白を締め上げる。
「顔色が変わった。ねえ、図星なのでしょう?」
見つけた獲物を弄ぶ、愉悦のしたたるような声だった。
「あんたは……何なんだ。一体何を知っている? なぜそんな」
「駄目よ、訊いているのは私。ねえ? 危険を冒してまで解き放たれた災厄を追う義理なんて、あなたにはないでしょう?」
「違う、俺は……、あれを解放しちまったのはうちの軍だ、だからっ」
「『うちの軍』。まああ、殊勝だこと」
女は嗤った。揶揄をたっぷりと含んだ声音で。