「この里は迷いの森と番人とに護られています。そう滅多なことでは近づくことさえできないので心配には及びません。でも番人の彼によると、ここ最近妙なものが森の付近を徘徊していたようなんです」
「それってあいつじゃねーの?」
「時期が合いすぎるな」
葛葉は椀を置いて阿古耶に向き直った。
「万一ということもありますゆえ、念のため気をつけられたほうがよろしかろう。この雲取が言うには元は人間ということじゃが、理性や分別などが残っておるようには到底見えなかった……。言葉も通じず、まるきり獣のような様子でのう」
「ご忠言ありがとう存じます。そうすることにいたします」
阿古耶は、周りで給仕をしていた同族に向かって頷いて見せた。それだけで通じ合うものがあるのだろう、木霊たちは互いに囁き交わすようにして四方に散っていった。
「穢れた力を取り込んだ人間……。もしそれが本当だとしたら、やはり解き放たれた怨霊の影響でしょうか」
空を見上げて阿古耶が呟いたそのとき、澄んだ声が里に響いた。
長く尾を引く、笛の音のように優しい声だ。高く低く抑揚をつけて、どこからともなく──いや、周囲の至るところから聞こえてくる。
またたく間に厚みを増した声は幾重ものさざなみとなり、やがて軽やかな旋律となって里を包んだ。
葛葉は気づいた。穂積の衆の歌声だ。それもただの歌ではない。
「結界を強化します」
宣言と共に阿古耶も歌い出した。木霊たちの旋律を束ね、導き、木々を伝ってどこまでも伸びていく。
「これは……歌に妖術を組み合わせておるのじゃな」
「歌に? そんなこともできるのか」
「さよう。歌や曲、舞などを妖術に併せることによって効力を増加させるのじゃ。
ほれ、あの桜の神木があった広場で、亡骸を弔いながら妾がひとさし舞ったであろう。あれと同じことよ」
「おお、輪唱してるなっ。なァんか楽しくなってきたぞ!」
里の守りが、まるで綾なす織物のように綴られていく。
いかに妖力があろうとも一人では成し得ない、見事な重層構成だった。
阿古耶は身振りで食事を続けるよう促してきたものの、弾むような歌声につられて雲取がそわそわ身動きし始める。
だが今度ばかりは葛葉も叱れなかった。こんな歌声に囲まれていてはとても座ってなどいられない。
ちらりと隣を窺うと、どうやら清白も同じことを考えていたようだった。むず痒そうな表情で分かる。葛葉は嬉しくなって椀を手に取った。
二人はまだ温かい粥をきちんと味わい、他の皿もすべて綺麗に空けたあと同時に立ち上がる。愛用の鉄扇を広げた葛葉の傍らで、大樹に身をもたせかけた清白が、小さな鼻歌で木霊らの旋律に唱和する。雲取はとうに空中で踊り出していた。
楽しげな歌声の輪は重なりながら広がり、少しずつ熱を増していく。
結界が織り上がるまでのほんのひととき。
穂積の里はあたたかな調べに満たされていた。
END