「心しておきなさい」
事あるごとに
杏子さんはそう言う。
「あなたがヒイラギのために為すことは、つまりヒイラギが直接自分で手を下すに等しいのよ」
四等分した玉葱を刻みながら、私はいつものように師の言葉を胸の中で反芻した。
杏子さんは流れるような所作で皮をむき終えたジャガイモを鍋に移しているが、先程までの『訓練』のほうにまだ意識が向けられているのだろう。
杏子さんのもとで闇技術を習い始めて早数年。『闇技術者スズランの後継』と、私はすでにそう目されるようになっていた。
胸に宿る想いはただひとつ──ヒイラギの役に立ちたい。
無力な幼い娘がその願いを叶えるには、何よりもまず技能を得ることが先決だった。知識を蓄え、思考力を磨き、身体を鍛える。毎日繰り返される基礎と、少しずつ取り入れられる新たな課題。
そうして月日を積み重ねてきたのだ。今は諜報活動にまつわるスキルを集中的に学んでいる最中で、実地訓練もいよいよ佳境に入りつつあった。
多岐にわたる情報の収集・分析・評価・操作、暗号の解き方と作り方。潜入の心得から誘導尋問のコツまで。ハニートラップの手管だけは、実際に活かせるのは少なくともあと数年先のことだろうけれど。
闇に生きる者ならば身につけておかねばならない技術は無数にあり、しかも体系だててきちんと学ばなければ、結局付け焼き刃に終始してしまいかねない。だから、当代随一と言われるほどの人物に師事できたのは、計り知れない幸運、なのだ。
ただの子どものままではいられなかった。一日でも早く杏子さんのような闇技術者にならなくては。
他ならぬ杏子さんの言うことを聞き漏らすまいと、私は懸命に耳を傾ける。
「例えばね、雪。あなたが諜報や謀略なんかの汚れ仕事を一手に引き受けたからといって、それでヒイラギが自分の手を汚さずに済んだと考えるかしら?」
疑問形をとってはいても、答えはあまりに明らかだった。
「あなたが彼の意に沿って動く以上、あなたの手はつまりヒイラギの手なのよ」
適度な大きさに切り分けられた数種類の野菜が、鍋の中でバターと絡まり湯気をたてた。音が跳ねる。
「……でもね、雪。それでも、あなたは彼の所有物じゃない。決して。そこを間違えないでほしいの。あなたは他の誰のものでもないのよ。髪ひとすじから指先まで、あなた自身のもの、だから」
杏子さんは多弁なほうではない。普段寡黙な彼女がこうもはっきりとした口調で語るのは、長い時間をかけてあぶり出された想いであるからこそ。十二歳で諜報技術を身につけ、ゆくゆくは暗殺任務すら手掛けようとするたった一人のきりの弟子に、言い聞かせておいたほうが良いと、そう判断したからこそ。
「あなたはもう分かっているとは思うけれど」
言い添えた杏子さんは、愛用の木べらで手際よく鍋の中身を混ぜる。牛乳と固形ブイヨンを入れて、味を整えて。
優しい匂いがキッチンに漂う。子ども時代を西ドイツで過ごしたという杏子さん特製の、身体の芯から温まるクリームシチューだ。彼女のおかげで私はすっかり中欧風の料理に馴染みつつあった。
「覚えておいてほしいの」
杏子さんは静かにしめくくった。
最上級の闇技術者として長年働いてきて、ヒイラギの知己で、私を育ててくれた師。
訓練が進むにつれて頻繁に彼女の口から出るようになったのは、紛れもない戒めの言葉。忠告だった。
杏子さんの物言いは、言葉のひとつひとつに重みがある。胸の奥にじんわりと染みとおっていくようだ。
今のことも、いつか実感を伴って脳裏に蘇る日が来るのだろうか。
END
【君へありがとうを10回言おう】
お題拝借:
ユグドラシル様