「ねえ、どんなものが観えたの?」
感情のこもらない声がシュナイツァーの耳朶をくすぐった。
いつもの気怠げな眼差しで、夏木がおっとりとこちらを見つめている。
アリセ・ナツキ。妙齢の女性がきちんと化粧をして品の良いスーツとハイヒールを身につけているというのに、彼女の全身から陽炎のように漂うのは、さも億劫そうな、まどろむ老猫のように緩んだ気配。
ローゼンクランツとは対照的に、いっそ退廃的なまでの覇気の薄さである。声をかけてきたこと自体、あくびのついでに訊いてみたようなものなのかもしれなかった。
夢幻にかいま観た一場面を語ろうとして、ふとシュナイツァーの胸中に何かが生じた。
迷い。
同僚の未来を観たのは初めての経験だった。
数ヶ月、場合によっては何年も寝食を共にし、同じ目的を掲げて協力していくローゼンクランツや夏木に、あのように不可解な未来の情景を話しておくべきなのだろうか。
未来予知といっても常に百パーセント的中するわけではない。けれどもなぜだろう、口に出したら実現してしまいそうな気がして、訳もなくためらわれた。
「……いや。大したものではないんだ」
とっさに口をついて出た言葉に、シュナイツァー自身が驚いた。
気質的に理論構築を重んじる彼にしてみれば、はっきりとした根拠もなしに物事を進めるなど言語道断、もっての他なのである。
「ふぅん。そう」
「本当か? とてもそうは見えないけどな」
夏木はそれきり再び窓の外へと視線を滑らせてしまったが、当然のごとくローゼンクランツのほうは引き下がらなかった。少し面白がるように目を細めて見据えてくる。
鮮やかなブルーアイ。彼が精神感応の力を使っていないと承知していてもなお、この目で凝視されると、内心を見透かされてしまうような気分がして落ち着かない。
怯むまいと視線に力を込めて、ふっと気づいた。
ローゼンクランツの双眸は、晴れ渡った海を連想させる明るい色をしている。
海──。
またたく間に脳裏に広がる月夜の一幕。まだ身体の奥でさざめいていた潮騒が、風を受けた炭火のように勢いを盛り返していく。
幻に観たあの海は、幾層もの青を繊細に重ね上げて、深く、濃密だった。触れた指先から絡め取られてしまいそうに美しい、底知れぬ深淵そのもの。
そして、あの娘の眼差しもまた、同様の色素を帯びていたのだった。
異国の娘。戦い。錐刀。ローゼンクランツ。入水。
シュナイツァーは小さく嘆息した。
この状態ときたら、上下すら定かでない抽象画や、ピースが揃わないパズルのようなものではないか。全体像を把握できず、手の出しようがない。
ただひとつはっきりしているのは、娘と戦っていた二人の若者が東洋人の顔立ちをしていたという点。
極東での任務が間近に迫っている今、警戒すべきは赴任先で起こる出来事、そこで出会う者だろう。
きっといつか、あの場面の意味が分かるときが来る。それまではローゼンクランツにも夏木にも口外するまい。
さしあたり結論づけると、ようやくシュナイツァーの心は平生の冷静さを取り戻した。
「話してやりたいところだがな。実は、切れ切れでよく分からないんだ」
「そうかい。ずいぶんと深く浸っていたようだから訊いてみただけだよ」
眼前にいる同僚はいつだって飄々として、本心を掴みにくい。が、幻の中のローゼンクランツは人目も憚ることなく切羽詰まった叫び声を上げていた。
ああまで彼を変えてしまったものは、一体何なのだろうか。
夏木相手に極東の気候話を始めたローゼンクランツを眺めるうちに、再びシュナイツァーの胸中に暗雲がたれこめていく。
(もしかしたら)
もしかしたら、それを理解できる日など来ないほうがいいのかもしれない。
いつまでも、この先ずっと。
不吉な未来ならば、最初から観ることなどできなければよかったのに。
シュナイツァーは深々と嘆息するしかなかった。