自室に戻り、仕事服を脱ぎ捨てると、悠二は細く嘆息した。
ふと前髪を払いのけ、指先の冷たさに驚く。
(任務完了、か)
今回も仕事は完璧だった。ターゲットが使用人も呼ばず、ひなびた別荘地で無防備に一人で羽根を伸ばしていたせいもあるが、こうまで事がスムーズに進んだのは、悠二たちが任務に手慣れてきたからに他ならない。
『任務に慣れる』、すなわち殺人に慣れるということだ。
脱いだ服を冷たい床に散らばせたまま、悠二はポケットから捜し当てた煙草に火を灯した。
火が揺れた。闇の中に一瞬浮かび上がったその表情は、つい先ほど将とじゃれ合っていた時とは別人のように暗い。
暗殺。一時の激情に駆られてではなく、計画的に、冷静な殺意でもって人を殺めること。光の中に住む人々には決して理解し得ない、残酷で、退廃的な、でも確かに必要なもの。
(いまさら何を感傷に浸ってるんだ。俺は……)
この一年、幾度となく繰り返してきたその凶行を、今夜も重ねただけだ。自分に言い聞かせ、悠二は胸の軋みを忘れようと煙草を胸いっぱいに吸い込む。
悠二はゆるりと紫煙を吐き出す。そうすると少しだけ気持ちが落ち着くのだ。喫煙の度が過ぎると、すぐに箱ごと取り上げてしまう人は、もう、どこにもいない──。
煙草は前々から吸っていたが、手放せなくなったのはこの生業に手を染めてからだった。桁違いに本数が増えたのは自覚している。身体に百害あって一利なしということも理解している。でも、それでも煙草は必需品だ。悠二の張り詰めた心をほぐしてくれる、唯一のものだから。
どんなに有害でも、それが精神を安定させ、再び任務に臨む力を与えてくれるのならば、悠二は何だって厭いはしない。必要とあれば、昔は憎んですらいた薬物にだって、ためらわず手を出すだろう。
もともと長生きなんか望んでいない。目的さえ果たせれば……それでいいのだ。
突き動かされるように生きる自分。それをひどく冷たい目で見るもう一人の自分がいる。
(後戻りはできない。必ず、仇をとる)
そう。悠二は誓ったのだ。白銀の雪が鮮血に染まった、あの夜に。
──… * * * …──
二〇〇一年、一月。悠二は底冷えする長野の町にいた。
その年は例年と比べて降雪量が多く、神奈川生まれの悠二は正直なところ、際限なく粉雪を撒き散らす灰色の曇天に辟易していた。
「ったく……この天気、何とかならないもんなのか?」
仕事でなければ外出など絶対にお断りである。悠二は恨めしげに天を振り仰いだ。
風と共に舞い荒れる雪は美しく、風情もあるが、それは暖房の効いた室内からブランデーでも舐めつつ眺める場合に限られる。
すでに空から舞い降りてくるものは、粉雪というよりドカ雪になりつつある。こうも遠慮なく延々と降って、手足の先から感覚を奪っていくのでは、風情も何もあったものではない。この悪天候が、仕事に差し支えなければいいのだが……。
生まれも育ちも神奈川の悠二はしきりに寒い寒いと独りごちたが、隣でカメラのレンズを磨いている相棒には、寒そうな素振りはこれっぽっちも見られなかった。
「だってあたし、北海道生まれだもの」
寒くないのかと訊くと、澄ました微笑とそんな答えが返ってきた。
「あー……そっか。函館だっけ?」
寒いところで生まれ育った人間には、寒さに対する免疫みたいなものができるのだろうか。それとも単に、慣れて感覚が鈍くなってるだけか?
口に出したら機嫌を損ねそうなので、悠二は別のことを訊ねてみた。
「小樽よ。運河とガラス工房の町」
彼女の返答はいつもと変わらず、そっけない。無駄口の少ないことと辛抱強いことが、彼女の美点だと悠二は知っていた。
無駄口が少ないといっても、決して無口なわけではない。ただ余計なことを口にしないだけだ。
二人はようやく研修を終えたばかりの、新米探偵コンビだった。駆け出しとはいえ、探偵のくせに妙に口数が多い悠二にとって、相棒の冷静さはとてもありがたかった。
相棒──彼女の名は
川瀬 夏実。三つばかり年上の彼女とは、研修時代に知り合った。華奢な眼鏡をかけているが、ショートカットがよく似合っているせいで、“知的な活動家”タイプに見える。
その外見は、あんな胡散臭い私立探偵養成所で行われる講義には、全くと言っていいほどそぐわなかった。