異端者たちの夜想曲

林原将 (2)


 将は父に気づかれないように二階の自室へ行こうとした。何があったか知らないが、関わり合いにならない方がいいに決まっている。冷え冷えと考えながら、階段に足をかけた、その瞬間。
 天井がぐるりと回って、頭の上から落ちてきた。
 何が起こったのか、将は目を開ける前から理解していた。むせかえるような酒気。煙草の臭い。誰かが自分を見下ろしている気配がする。
「お前……お前さえいなければ……」
 力任せに引き倒されたのだ。父に。
 したたかに打ちつけた後頭部が鈍く痛んだが、それどころでははない。なぜなら廊下に倒れ込んだ将を見下ろす父は、とても正気の顔色ではなかったから。
「お前、お前は……」
 一言ごとに濃度を増す憎悪。荒くなっていく呼吸。父は顔中を歪めて将を眺めていた。瞳の焦点は定まっていない。だがそれでも、激情に曇った虚ろな眼差しをこちらに向けている。
「お前のせいで、何もかも……」
 毛細血管が切れたのだろう、白眼の部分が赤く濁っている。その悪鬼のような眼と視線が合った刹那、将は直感した。
 殺される。
 将は、目を逸らすことができなかった。まばたきすらせず、父の腕が自分の首へと伸びてくる様を、ただ見つめていた。
「う、ぁあ、アあああぁアァッ!!」
 父の手に決定的な力がこもるより、一瞬だけ速かった。
 首を絞めかかる父親を力の限り払いのけ、将は勢いもそのままに玄関から外へと転がり出る。
 振り向きもせずにひた走った。もつれそうになる両足を、無我夢中で動かし続けた。
 どれくらい経ったのだろう。
 ふと気がついた時、将は見知らぬ夜道に倒れ込んでいた。全力疾走のせいで破れんばかりだった胸の動悸も、すでに治まっている。
(たすかっ……た、のか……?)
 将はこわごわと辺りに視線を走らせた。周囲にあるのは、ただ深い静寂だけ。半身を起こして見上げた夜空には、冬の星座が裾を広げていた。
(……ああ……)
 思わず目元が潤んだ。もう、自分を追い詰める者は誰もいない。身を切るような夜気にさらされながらも、将は心の底から安堵した。

「おい、どうしタ。大丈夫カ?」
 呆然と座り込んでいた将は、背後からかけられた声に仰天した。押し殺した悲鳴を上げてから、しまったという顔でおそるおそる振り返る。
 声の主の方でも、予想以上に大げさな反応があったので戸惑ったらしい。少し躊躇していたが、結局近寄って再び将に話しかけてきた。
「大丈夫カ?」
 しゃがみ込んで将の顔色を確かめたその男は、日本人ではなかった。東南アジア系かな、と将はぼんやり思った。
 後で分かった話だが、男の名はルソン。フィリピン人だという。
 ルソンはからりとした表情がよく似合う、気さくな青年だった。少なくとも将はそう感じた。自分だったら、
「よかったラ、ひとまずうちに来るカ?」
 などと言って、素性の知れない相手を抱き起こしてやったりはしないだろう。
 将は即答せず、相手をまじまじと見上げた。言葉の真意を図りかねたのだ。
 それを、言葉が通じなかったのかと勘違いして、ルソンはもう一度繰り返して言った。ややぎこちない日本語だが、聞き間違えようはない。
(なんでオレなんかに構うんだ?)
 将は、にわかには信じられなかった。
 どう背伸びしても十代半ば以上には見えない少年が、こんな時間に道端で行き倒れていたのだ。訳ありだと気づいたはずなのに……
 なのに、それでもルソンは微笑んで手を差し伸べてきた。

“一緒に来るカ?”

 凍るような寒さの中。これが将とルソンとの出会いである。
 白い歯を覗かせたこの時のルソンの笑顔を、将は後々まで忘れることがなかった。


 それから、将はルソンのアパートへと転がり込んだ。
 着の身着のままの逃避行である。勧められるままついて行ったわけだが、ルソンという人物に関して分かっていることは、ほぼ皆無である。
 むろん不安がなかったわけではない。だが父親に殺されかけた後では、もうどうなってもかまうもんか、という気持ちが全身を黒々と支配しており、それが将を投げやりにさせた。
 父はこれ幸いと小躍りするだろうし、母は厄介者から解放されたと胸を撫で下ろすかもしれない。姉に至っては「そう。それで?」で全て済ませてしまうに違いない。
 おそらく世間的には家出とされるだろう。中学二年の生徒が行方不明ということで、学校側は多少騒がしくなるだろうが、それも一時的なことだ。一週間、一ヶ月、一年。時間が経てば、誰もが自分のことなど忘れてしまうだろう。林原将という名の人間など、最初から存在しなかったかのように。
 将にとっても、あの家庭という檻から自由になれるのなら、学校も何もかもが些末事にすぎなかった。
(十四歳のドロップアウト。なかなか凄いじゃないか)
 そんなふうに考えながら、外国人の多く住む猥雑な界隈にあるルソンのアパートで、将は日々を無為に過ごしていた。