……ああ……
一体、何がどうなっているのだろう。
これが、安全大国?
日本は文化的な先進国じゃなかったのか?
どうかしている。狂ってる。
もし、オレが狂っていないのだとしたら……
狂っているのは、社会そのもの。
そうだろう?
──… * * * …──
(オレが狂っていないのだとしたら、狂っているのは、社会そのもの……そうだろう?)
将は薄く目を開けた。
ここは静寂に包まれた新築マンションの一室。将の目下の寝ぐらである。ひと仕事終えた後、どうやらそのまま眠り込んでいたらしい。血臭の纏わりついた仕事着に身を包んだままだ。我ながら、意外に図太い神経をしているものだと思う。
とりあえず部屋の電気をつけて、将は漆黒の衣装を脱ぎ捨てた。
今夜の任務も、滞りなく完了。将が“夜刀”チームに加わってからまだ半年足らずだが、その間にこなした任務は少なくない。どれも表沙汰になることなく、闇また闇へと葬り去られた。
(この服には、『咎人』たちの数だけ断末魔が染み込んでいる……)
その血の臭いが、あんな夢を見させたのだろうか。父、母、姉。ルソン、フク。かつて、将の傍らを通り過ぎていった人たちの記憶。
現在将は、ルソンの言っていた『月の裏側』の世界にどっぷり頭まで浸かっていた。
辛辣な風の中で、殺人を繰り返している。一体どうしてこんな事態になっているのか、実のところ将は、未だに自分自身にさえはっきりした説明をできずにいた。
──… * * * …──
取調室から脱出して、遠くの街へ移って。
整備を放棄されたゴミ溜めのような区画に足を踏み入れてからは、将はただ虚ろに座り込んで時間を過ごした。目的もなく。意志もなく。壊れた人形のように。
どれくらいの日数を、そうしてやり過ごしただろうか。意識が朦朧としかけた頃、不意に誰かが近づいてくる気配を感じ、将はかすかに顔を上げた。
「……から、報告によれば……」
「引き続き調査を……」
かろうじて聴き取れるその声は、女のものだった。二人組らしい。
次第にこちらへ近寄ってきているが、単なる通りすがりだろう。こんな場所に女性の二人歩きとは珍しい。将はぼんやり考えたが、また顔を伏せ、生気の抜け落ちた眼差しで虚空を眺めていた。
「……あら?」
二人の女性のうち、背の高い方が足を止めた。
「どうしたの?」
もう一人も立ち止まると、連れに倣って薄暗い路地の奥へと視線を注ぎ込む。
「あれ、人よね」
「生きて……ますよね?」
そんな会話が聞こえてくる。どうも将の姿を見咎めたらしかった。普通の人なら、見なかったことにしてさっさと通り過ぎて行くだろうに、なぜだか二人は特に気味悪がりもせず、身動きしない将の様子を見つめている。
「ホームレスかしら」
「みたいですね。どうしますか、サルビア?」
二人の視線にさらされながら、将は相変わらず茫漠とした世界に引きこもっていた。
「ねえ、大丈夫?」
「どこか、怪我とかはないの?」
もう、全てが煩わしい。
「もし……貴方がそれを望むなら、わたしたちきっと貴方の力になれると思うわ」
「心配しないで。わたしたちはね、貴方と似たような境遇の人を何人も知ってるから」
このまま死ねたらいいのに……
なのに、背の高い方の女は何度も話しかけてくる。あまりのしつこさに将がうんざりし、追い払おうと思ってついに顔を上げた、その瞬間。
……後から思い返してみれば、全ての発端はここだった。
──… * * * …──
(全く、ほんとに人生ってのは何が起こるか分からないな)
嘆息して、将はシャワーを浴びるため浴室へと向かう。
玄関、キッチン、ユニットバス、約八畳分の洋室。それが将の部屋の全容である。必要最低限のものしか置いていないが、まず不自由せずに暮らしていける環境だ。
あのとき彼女ら──サルビアたちと出会ったおかげで、将は凍死も餓死もせずに、こうして人並みの生活ができるようになった。≪桜花≫という地下組織の首領秘書たるサルビアは、将の事情を知ると、組織の一員として受け入れ、正式にポジションを与えてくれたのである。
だがこの生活は、“夜刀”のメンバーとなって暗殺を手掛けることと交換条件に与えられたものだ。決して世間に顔向けできるものではない。
(『わたしたちは貴方を必要としているの』……か。すげぇ殺し文句だよな)
当時の情景を思い出して、将は苦笑した。
差し伸べられた手を、思わず掴んでしまったのは紛れもない事実。
なぜ、彼女の誘いを受けてしまったのだろう。こうして冷静に思い返してみれば、サルビアが省略した言葉も、手に取るように分かるというのに。