『わたしたちは、貴方みたいな“身軽な人”を必要としているの』
身軽な人。つまり、まともな社会生活を営んでいない者、という意味だ。
“夜刀”のような実働部隊は、組織のいわば手足。それに従事する者は、有事の際には必要とあらば切り捨て、後で任意に補充できる……そんな人物でなければならない。
その条件を、将はものの見事に満たしていた。
≪桜花≫を裏切ったり、任務をしくじったりすれば即クビ。他に居場所がないのをいいことに、好き勝手に利用され、運が悪ければ使い捨てられる。
それは最初から分かり切っていた。なのにどうして、こんな地下組織に関わってしまったのだろう。まったく、自嘲の笑みしか出てこない。
暗黒社会で暗躍する組織の恐ろしさは、ルソンも常々語っていた。知らない者は一生知り得ない、けれど一旦知ってしまったら、その後の人生を全てかっさらっていきかねない…アンダーワールド。
食うか、食われるか。殺るか、殺られるか。一度足を踏み入れたらもはや戻れない魔窟。
そんな闇の世界に身を置いて、法で罰することのできない咎人たちを殺め続けるよりは、あのまま薄汚い路地でのたれ死んだ方が、いっそマシだったのではないか。
時折そんな疑問が頭をかすめないでもない。だが、将は選んだのだ。だからこうして現在、“夜刀”の一員として任務をこなしている。
こうなってしまった以上、もはや足を洗うことは不可能だった。いまさら理由などを考えてみても、無意味なのかもしれない。
──貴方を、必要としているの──
耳に残るサルビアの声。これほど切なく面映ゆい言葉をかけられたのは、将にとって生まれて初めての経験だった。
自分を必要としてくれる。将という人間の存在を否定しない……サルビア。“夜刀”。≪桜花≫。
自覚はなかったが、その時、心の底では、嬉しかったのかもしれない。
──… * * * …──
将がサルビアと出会ったのは二〇〇二年一月。十九歳になったばかりの頃だった。
そして“夜刀”のアニスとしての初任務は、同年十月。この九カ月の間、将はは何をしていたかというと、『研修』を受けていたのである。
一介の世捨て人に過ぎない、それもまだ少年の域を出たばかりの若者を、少数精鋭を誇る暗殺班のメンバーに仕立て上げる。考えるまでもなく、それは容易ならざる過程だった。
研修の初日、半ば拉致されるように東北のとある山寺に連れて行かれた将は、まず徹底した身体検査を受けさせられた。その結果、当然のことながらかなり身体が弱っていることが判明したので、第一段階は心身を健康に戻すことから始まった。
朝は六時起床、二十二時就寝。食事は七時、正午、十九時と毎日定時にきっちりと栄養計算された食事が出され、十五時には軽食も振舞われた。適度な運動と研修記録の提出が義務づけられたが、その代わり、清潔な衣服と、やたら広い浴槽に悠々と手足を伸ばして入浴する権利とが将に与えられた。
何といっても、やはり将はまだ若い。必要なものが必要なぶんだけ与えられると、衰弱していた身体は日に日に活力を取り戻し、それに伴い精神面も、少しずつではあるが回復の兆しが現れた。直接接する人数を、必要最低限に抑えられていたのが功を奏したのかもしれない。
栄養士の資格と経験を持つ女性、寺を管理する男性、身体機能をチェックし、その回復を図る理学療法士。全員が五十代で、≪桜花≫の構成員だった。
きちんとしたリハビリ計画のもと、日々は淡々と過ぎていく。
三月の中旬には、将はほぼ健康体を取り戻していた。自発的な発言も増え、寺に住み込んでいる三人相手なら、かなり打ち解けて話ができるようにもなった。
もっとも、生家を飛び出して以来、他人と目を合わせることに多大なストレスを感じるようになっており、それは未だ改善されていなかったけれど。
桜も咲き乱れる四月初頭。半月に一度往診にやって来る医師が、外科的・内科的にも問題なしと診断したのを契機に、研修は第二段階へ入った。
一日のうち、身体を動かすことに多くの時間が割かれ、将は心身を鍛えるための課題をいくつも課せられた。段階をつけて徐々に、しかし確実に、筋力トレーニングや長距離ランニングなどの重いメニューが増えていく。多少はキツかったが、同時になかなかやりがいもあった。
それまで気づかなかったのだが、将は実のところ、目標ができるとそれに向かって猪突猛進できるタイプのようである。良い成果を出すと、食事係のおばさんが“ご褒美”におかずを一品追加してくれるのも嬉しかった。
しかも研修場所は山奥の古寺である。将は人目を気にすることなく、地道に鍛錬を重ねることができた。