異端者たちの夜想曲

林原将 (11)


 そんな様子で、天気予報図に梅雨前線が広がる頃には、痩せ細って痛々しいくらいだった腕にはしっかりと筋肉がつき、全体的に将は引き締まった体型になっていた。
 瞬発力、持久力、筋力、走力。どれをとっても平均以上の数値を記録している。半年前の死者のような雰囲気はなりを潜め、控えめながらも闊達な立ち居振る舞いがそれに取って代わった。
 こうなれば第三段階突入に躊躇うはずもない。
 将の目覚しい回復の報告を都内で受けたサルビアは、次のように言ったという。
「ええ、わたし、見る目はあるつもりなの。バーゲンでも焦って変なの掴んだことなんて一度もないしね。彼は磨けば使い物になると思ってたわ。
……ただ、運動の成績は良くても、頭の運動の方はどうかしらね? それがちょっとだけ心配だわ」
 四百キロメートル離れた空の下からのサルビアの心配は、見事的中した。運動能力には優れていても、机に座って勉強することと将は、相性がよろしくなかったのである。

 将に課せられた次なる試練。それは、地下世界の常識を学ぶことだった。
 教師役を主に務めたのは、寺に住み込んでいる三人。現代日本の地下情勢に始まって、そこで暗躍する主な組織・団体に関する知識、『表』の世界との境目、大小の海外グループとの接点などなど。将が覚えるべきことは気が遠くなるほどたくさんあって、本人も何とか記憶中枢に刻み込もうとよく努力した。
 だが将の場合はどうにも丸暗記が苦手のようで、結局のところ、努力は報われないことの方が多かった。
 将の知能指数や、いわゆる学力が低いというわけではない。柔軟な思考には秀でているが、固有名詞や勢力分布図をそのまま覚え込むのが不得手なだけである。
 将を暗記作業と親友づきあいさせることを諦めた教師陣は、ひとまず最低限の情報だけを与えて、他は極力さらりと流すことにした。これは賢明な選択だったと言えよう。
 ≪桜花≫という組織について講義したのは、都内から陣中見舞にやって来たサルビアだ。
 さすがに自分が所属する組織のことぐらいきちんと理解しなければと思ったのか、将は終始ひどく熱心だった。全てを取り仕切る首領・ヒイラギを頂点に、その補佐役として二人の副首領。そして彼らの下に“夜刀”を含む四つの班。それが≪桜花≫の全貌である。
 “夜刀”は少数精鋭での暗殺担当。“風”は調査を担当し、“海”は情報収集、“焔”は破壊工作を受け持っている。
 ちなみにサルビアは首領秘書であると同時に、“夜刀”への指令伝達も兼任している、ということだった。
 説明を受けた後、将は何気なく訊ねた。
「ヒイラギってどんな人なんだ?」
 その問いに、サルビアは短く沈黙する。紅く彩られた唇をゆっくりと開くと、
「残念だけど、貴方にはそれを知る権利がないの。
 いえ、貴方だけじゃないわ。あの人の『表』の顔を知っているのは、組織内でもほんの一握りだけ。それに……知らない方がきっと貴方のためでもあるわ」
 とだけ言って、サルビアはそれきり質問を許さなかった。
『与えられた命令をこなしていればそれでいい。何も考えるな。何も知るな』
 冷然と宣告された気がしたが、もちろん将は何も口に出さなかった。彼女が駄目と言う以上、どう不平を鳴らしても詮無いことなのだろう。
「貴方より一足早く研修を終えた人が、数ヶ月前から“夜刀”のメンバーとして活動を開始しているのよ。貴方にも期待しているわ」
 そう言い残して、サルビアは去って行った。

 そして迎えた夏。研修はいよいよ最終段階へ入った。
 今後将に期待されるのは、“夜刀”として暗殺に携わること──である以上、武器の扱い方を習得しなければならないのだ。
 刃物は包丁すらろくに握ったこともないし、もちろん拳銃など見たこともなければ触ったこともないのだが、机に向かって分厚い資料を分析するよりはマシなはず、と自分に言い聞かせて、将は『特別講師』の到着を待った。
 その特別講師に関してサルビアが言うには、『ありとあらゆる闇技能のスペシャリストで、ヒイラギの信用も特に篤い、≪桜花≫最高の人材』。
 寺の三人に訊いてみても、全く同様の寸評が返ってきた。エーデルワイスという人物は、どうもかなりの有名人らしい。
 人食い熊のような筋肉男だろうか。それとも得体の知れない脱獄犯めいた輩だろうか。将は最前とは違った意味で緊張を覚えた。

──… * * * …──

「初めまして。武器の使用等に関して、あなたの指導係を務めることになりました」
 落ち着いた声と共に将の前に現れたのは、年の頃なら十六、七の……つまりどう見ても今年20歳の将より年下の、女の子だった。
「……はあ…」
 よく事態を飲み込めていない将は、そんな曖昧な相槌を打つことしかできない。