異端者たちの夜想曲

蠢動 (2)


「新天地に入植するとなると、一、二ヶ月で帰還というわけにはいかないだろうな」
「ローゼンクランツ君、よかったねえ。日本の“梅雨”ってやつ、見れるんじゃない?」
「……そうだな。その時期に訪日したことはないから楽しみだ」
 出立は三月初頭。最も過ごしやすく美しい季節へと向かう祖国を後にして遠征に出ることを思うと、少しばかり気鬱を排し得ない三人であった。
「……あーあ」
 不意に、夏木の手元で書類が音を立てて燃え始めた。脈略もなく唐突に上がった炎だったが、それを見つめる三つの眼差しに驚きの色はない。
 感傷を払うように、炎は不自然に揺らめきながら瞬く間に書類を覆い尽くしていった。
 燃え落ちた屑を大理石の灰皿に放ると、彼らは静かに部屋を後にする。

 ヨーロッパ随一の精兵たちは、こうして極東へと向けて放たれたのだった。

──… * * * …──

 風薫り、桜の咲きさざめく四月のある日。
 澄み渡った空といい、うららかな陽射しといい、思わず口笛でも吹きたくなるような陽気である。
 しかし、せっかくの春の軽やかな雰囲気も、人間の生み出す悪意と謀略の暗雲がたれこめているその部屋では、全くの無意味だった。
 閉め切った室内には、後ろ暗い密談を交わす四つの人影。性別で分けるなら男性三人に女性一人。人種で分けるなら日本人二人に外国人二人という内訳である。
 四人は、三対一で応接ソファに腰掛けており、その間には重々しい沈黙が沈殿していた。
「悪い話ではないようですね」
 薄い唇から尊大げに言葉を押し出したのは、一人でソファを陣取っていた日本人。
 三十代に入ったばかりであるはずなのに、やけに暗く鋭い目つきの男だ。いかにも狡猾で貪欲そうなその眼差しで、対する三人を油断なく見据えている。
 男の名は、宮乃木 真司(みやのぎ しんじ)。政界において将来を嘱目(しょくもく)されている若手の急先鋒であり、良くも悪くも熱烈な言動で良くも悪くも目立ちがちな人物だった。
 何事にも即決・即行動を宗としている彼が、今は即断を避けて注意深く思考を巡らせている。頭の中では、三人の申し出を受け入れた場合と拒絶した場合、自分の利害は一体どう動くか、数々のメリットとデメリットが目まぐるしく点滅しているに違いない。
 どうやら三人の方は、黙して決断を待つことにしているらしく、結論を急かしたり利点を強調したりといった行動は皆無だった。
「一つお尋ねしたいのですが。もしも私がその……貴方がたが仰るようにしたと仮定して」
 ややあって、宮乃木は慎重に切り出した。
「私にはある程度のリスクが常につきまとうことになります。ことに最近は……『死神』だか『御使い』だか、とにかくそういう物騒な輩が地下で暗躍しているという噂をよく耳にすることですし、はっきり言って私とて我が身が可愛い。安全は保障してくださるのですか?」
 笑みすら浮かべながらきっちり保身に汲々とするあたり、いかにもな計算高さである。
 彼はこれまで、己の権力欲を満たすためにさんざん悪辣な手段を用いてきたし、裏では違法な取引すら数え切れないくらい取り交わしてきた。議員としての地位と権力を固め、さらに高みへと昇るためなら、どんなことも辞さない心積もりでいる。
 これは正念場だ。宮乃木はこっそり掌の汗を拭った。
 宮乃木に向き合っているのは、“白虎(ティーガー)”というチーム名で呼ばれる連中である。
 “白虎”とは、欧州の有力な地下組織≪SS≫の特務部隊であり、上層部の命を受けてこの三月に来日したばかりだという。
 真ん中に座っている金髪碧眼の青年──彼の名はシュリッツ・リヒト・フォン・ローゼンクランツという。メイン交渉役であるらしく、流暢な日本語を操り、実に巧みに会話を進める。外交官も務まりそうな才気煥発ぶりだった。
 その右隣に腰掛けている眼鏡の男は、東洋の血も混じっているような顔立ちで、堅苦しい表情のまま「フォルド・シュナイツァー」と名乗った。暗色系のスーツを一片の隙もなく着こなしたその姿は、いかにもやり手のビジネスマンといった風体である。
 左側には最後の一人、日本人らしき女性。姓名は夏木 有瀬(なつき ありせ)。夏木女史は、控えめというよりどことなく気の入らない様子で、ココア色の髪先を弄っている。それでも時折は口を挟み、宮乃木の反応を窺うように見つめてきた。
 シュリッツ、シュナイツァー、夏木。“白虎”の三人が宮乃木に耳打ちしたのは、一般的には懐柔とか買収と言われる申し出である。≪SS≫の日本進出の足がかりとなる地下での協力者を求めているらしく、利益を与える代わりに、手足となって宮乃木に動いてほしいのだと言う。
 ≪SS≫の後見は、宮乃木にとってひどく魅惑的な撒き餌だった。欧州の巨大組織の後押しがあれば、これまでは危険すぎて手が出せなかった際どい取引も可能になる。思わず即応しそうになって、慌てて自制した。