気がつくと、すでにそこは戦場と化していた。
憎悪をはらんだ炎が辺りを覆い尽くし、敵か味方か、どちらのものともつかぬ怒号や悲鳴がこだまする。
つい先日までは居城だった巨大な建築物が、数時間のうちに殺し合いの場へとなり変わり、数え切れないほどの戦士たちが流した血の臭いを──戦争の臭いを充満させていた。
すでに戦闘の前線は城の最深部へと移っており、城門付近には破壊された城壁と、物言わぬ亡骸だけが残されている。錆びた鉄にも似た異臭は薄まることなく瓦礫の海を漂い、むしろ刻一刻とその濃度を増しているようにも思われた。
まさに悪夢のような光景。
その中を、年端もいかない少女がひとり、懸命に走り続けていた。
剣戟の音、断末魔、苦悶の声。絶え間なく鼓膜を刺激する戦いの轟音。烈火にあぶられた夜風に乗って聞こえてくるそれらに半ば錯乱しながら、それでもなお幼い少女は、震える脚で進み続けた。
平和な世界とは決して相容れない、異質な空気を振り切るかのように。
† †
ダンッ!
少女は開け放たれたままの扉の前でつまずき、勢い余って部屋の中へと転がり込んだ。
とっさに行儀作法が服を着て歩いているような教育係の教えが脳裏をよぎったが、あえてそれを無視する。入室時の礼儀どころではない状況下に、いま自分はいるのだから。
いや、彼女だけではない。この世界に住まう全ての生ある者たちが、戦争という非日常の空間に足を踏み入れていた。
五つの異なる種族が互いに牙を突きたて合い、殺し合う日々が、もう数ヶ月間も続いている。地上全土を戦火が覆い尽くし、血の流れぬ日は一日たりともなかった。戦争に明け暮れる、地獄のような日々。
倒れ込んだ次の瞬間、彼女の視界に飛び込んできたのは赤い色だった。べったりと床に広がっているそれには、紅色や緋色、朱色のような鮮やかさがない。もっと濃くて暗い色の……それは、血だった。
血だまりの中に、男がうつ伏せている。苦痛の形相を顔に貼り付けたまま、しかしその瞳はどうしようもなく曇っていて、虚ろだった。もはや事切れているのは明らかだ。
幼い少女が小さく息をのむ。ゆっくりと視線を移したその先。広間で展開されていた惨状を目にした刹那、彼女は身動きがとれなくなってしまった。細い肩が上下するたび、淡い黄金色をした絹のような髪が揺れる。
そこには二つの種族──“天人”と“海人”の姿があった。
一目で王室関係者と判る容貌を備えたこの少女は、背に一対の翼を有する“空を往く者”、天人種族に属している。敵兵である海人の戦士が、見逃すはずがなかった。
「がぁッ!」
裂帛の気合いと共に、鉤爪と化した海人の爪が斬りかかる。
声が出ない。動けない。背に走る戦慄。少女が青空色の瞳を見開いた、その瞬間、金髪をはためかせて天人の戦士が地を蹴った。
風が唸る。
振り下ろされた五本の鉤爪は、少女の柔肌を切り裂く寸前、一瞬でその腕ごと断ち切られた。更に間髪入れずに放たれた首への一撃が致命打となり、海人は完全に沈黙する。
何たる早業。海人兵は悲鳴を上げることすら許されずに絶命した。
ひとまずこれで周囲は天人のみとなったわけだが、少女を救った戦士は秀麗な顔を険しくしたままだ。焦燥、憤怒、悲哀、諦念……そこには幾つもの感情が見え隠れしていた。
「ルシファー!?」
ひと呼吸だけ置いて。金髪碧眼、白翼。長身痩躯。非の打ち所がない容姿をしたその戦士は、少女を責めるような口調で呼びかけた。
「ルシファー、なぜ戻って来たんだ!? ここはお前のいるべき場所ではない。分かるな?」
「お父様……」
少女は呆然としたまま眼前の戦士を見上げた。父親であり、天人国の王でもある、セラフィム=ディーク=レグナ=ローランスの名を持つ戦士を。
「でも……わたし……」
「ルシファー!」
少女の震える声に、凛とした女性の声が重なった。それは天人王の妻、即ち母親のものであることを、少女は見るまでもなく理解した。
アンジェラ=アルディ=ティルム=ローランス。齢三十歳前後といったところだろうか。彼女の面持ちはルシファーとよく似ていた。しかし、そこにはいつもの優しい微笑みはない。戦場で半ば放心している娘の姿を見るや否や、
「何をしているのです、すぐに退避なさい! 敵兵は王族と“法願使い”を狙っているのですよ!? ましてあなたは金色の髪に蒼い瞳、すぐに王族だと知れてしまいます。こんなところにいたのでは、格好の標的以外のなにものでもありません。
……さあ、早くお行きなさい」
「でも、お母様!」
ルシファーは大きな瞳に涙を溜めて、父と母の言葉に抗う。
ここで別れれば、恐らく生涯の離別になるであろうことを、少女は直感的に悟っていた。そして、それは彼女の両親とて同じことだった。