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Judgment Day (2)



「八年、か。早いものだ。あの幼子が立太子するとはな……」
 呟いた女は、ひどく虚ろな目をしていた。
 現実感が希薄な、遠くを見るような眼差し。どれほど華やかな衣装を身に纏っても、美しい装飾品で着飾ろうとも決して隠せない、光が消え失せた双眸である。
 だがその瞳の奥には、常に激しい憎悪の念が逆巻いていることを、彼は知っていた。
 広い広い謁見の間には、彼と女の二人しかいない。鼓膜を圧迫する異様な静寂に包まれたその場所では、唇から滑り出た言葉はいつまでも消えずに虚空を漂っているかのようにも思われた。
「八年。あの子は眠り続けたまま目覚めない」
 豪奢な玉座に身を沈めたまま、海人の女は曇った視線を投げかけた。先ほどから沈黙を守っている男──蒼氷色の髪をした若者に。
 彼の名はエーギル。少年期の終わりを迎えている年頃である。その面持ちは極めて秀麗で、しなやかに引き絞られた体躯も見事に整っていた。しかし髪と同じ色の彼の瞳は、見る者に底冷えするような印象を与える。貪欲に牙を剥いて襲いかかってくる肉食獣の眼差しとはまた異なった、まるで深海に棲む獰猛魚のような……昏く冷たい、凍りついた瞳。
 細めた目でそれを確認すると、女はゆるりと口を開いた。
「分かっているだろう……エーギルよ」
 地の底から響いてくるような声だった。怖気を呼ぶような陰惨な情念に満ちているが、ここにはそれを畏れる者はいない。そして彼女の精神の均衡を慮る者もいない。
 女の紅い口元に、薄い笑みが浮かぶ。
 歪んだ哀しみ、恨み、憎しみ。時を経てなお冷めず、心の奥深くで昏く澱んで濃縮された激情が、幾つも入り混じったような狂気の微笑みだった。
 だがエーギルにはそれが当たり前だった。彼は物心ついてからというもの、その女の狂ったように禍々しい笑みしか、笑顔というものを見たことがないのだから。
 ──いや、そういえばたった一度、もう八年も前に一度きり、薄暗い監獄の中で花のような微笑みを見せてくれた少女がいたのだが……
 エーギルが女の言葉に無言で応えると、昏い笑みが一層深みを増して海人王の顔を彩る。
「時は満ちたのだ。今こそ仇を討つがよい。お前の、その手でな」
 エーギルは理解していた。
 海人王の憎悪が何に向けられたものなのか。彼女が何を望んでいるのか。そして、これから自分は何を成すのかということ。
 膨れ上がった呪詛はもはや誰にもとめられない。放たれて、弾けるのみ。
 エーギルは玉座に背を向けた。軍靴の踵が鳴り、謁見の間に響く。
「行け。天魔に魅入られし者、不浄なる呪い子よ」
 深く重い声音は、扉の閉まる音に重なって、言葉を発した本人以外、誰も耳にすることはなかった。
 女は再度あの笑みを零した。


END