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Tearful Day (2)


「……大丈夫。父上が一緒だし、オレも傍についてるから」
 従兄の声は優しい。いつだってそうだ。沈みそうになる気持ちを掌でそっとすくい上げてくれる、柔らかな声と表情。先の戦で海人国に囚われたとき、傷だらけになりながら真っ先に飛んできてくれたのもこの従兄だった。大好きな兄。もし彼がいなかったら、きっと今の自分はここにいない。いつの日か即位して王となっても、彼の前でなら肩の力を抜いて笑えるだろう……。
「うん、ありがと。ジルお兄様大好き」
 なんだか切なくなって、思わず背中に抱きつくと、礼服に焚きしめられた香がほのかに匂った。彼の優しい羽根の色によく似合う香り。途端に嬉しさがこみ上げてきて、笑いがこぼれる。
「こらルゥ、ふざけるなって。もう立派なレディなんだから」
「レディは明日から。今日はまだ子ども、ってことで。ねっ」
「ったく……どうしてこんな甘ったれに育ったのやら。そんなんじゃ婿の来手がいないぞ?」
「未だに婚約もしてない人には言われたくないー」
「オレは理想が高いの」
「へえ、どうだか」
 窓辺から差し込む午後の光と、盛装に身を包んだ従兄。くすくす笑い合いながら二人して長い廊下を歩くのに夢中で、いつの間にかルシファーは気鬱をすっかり忘れ去っていた。

†  †

 前夜祭は粛々と始められた。
 絢爛たる大広間を縦断するように緋毛氈が敷かれ、上座から向かって右は国賓席、左には招待席。誰もが優美に着飾り、上座に誂えられた主催者席を見つめている。広間を埋め尽くさんがばかりの来賓席に比べれば、主催側である天人王族席の面積はごく慎ましやかなものだった。国王夫妻とその子息、そして祝祭の主役である世継ぎの姫。それが王室直系の全容なのだから。
 慶賀式典の要は明日で、今日のところは簡単な挨拶と面通しである。ルシファーは視線の集中豪雨を浴びながら、背筋を正して叔父ミカエルの感謝の言葉に耳を澄ませていた。
 こういった挨拶の原稿を、秘書や官吏があらかじめ用意しておく場合もあるのだが、今回は王自らが書いたものである。要点は簡潔に、視野は広く、飾りすぎない表現で。内容にしろ朗々たる語り口にしろ、老練な先達に劣らぬ見事な謝辞だった。挨拶だけではない。政治、外交、国事行為……叔父から学ぶべきことはまだまだたくさんあるのだ。身が引き締まる思いだった。
 やがて太陽が沈む頃には儀礼的なものが一通り済み、会場は吹き抜けの広間へと移された。舞踏会や芸術展などに使われることの多い場所で、一月ほど前に従兄と心ゆくまで踊った件も記憶に新しい広間である。今夜は有能な城勤め人たちの手によって格式高い夜会の場へと早変わりし、見目麗しい宮廷の晩餐が澄まし顔で幅をきかせていた。
(ふう)
 ほんの一口、冷たい果実ジュースが喉を通り抜ける。ルシファーはそっと息をついた。
 緊張はだいぶ薄まっているが、やはり大勢に注目され続けるというのは精神衛生上よろしくない。見られれば見られるほど、お化粧や衣装の状態が気になって仕方がないのである。確認しに控えの間へ駆け戻りたいのをぐっと堪えて、世の貴婦人はみな晴れの舞台に立つものなのだろうか。おまけに自分ときたら、緊張して普段使わない部位の筋肉を使っていたに違いない。さっきから妙に肩が凝るし、クッションのきいた長椅子の柔らかさをありがたく感じるなど、重症の証拠だ。
 とりとめなく考えていると、突然目の前に小皿が差し出された。季節の生野菜の和え物、果物の盛り合わせ、そして皿を手にした従兄と叔母。順番に眺めてルシファーは顔を綻ばせた。
「今のうちに食べておいた方がいい。みな、適当に料理をつまんだらこちらに挨拶に来るぞ」
 そう言う叔父は、すでに挽肉の練り包みを攻略しにかかっている。周囲に目をやれば、国ごとに用意された円卓を前に、長椅子にもたれてそれぞれ談笑と食事に花が咲いているようだった。
「いただきます」
 宮廷楽師団の奏でる穏やかな曲が、吹き抜けをゆるりと昇っていく。どの料理も温かく、幸せな味がした。