六〇六年風月/ユディル
ひどい難産だった。
何ヵ月もつわりが続いて、それがようやっと治まったと思ったら、今度は産み月が近づくにつれて顔や手足がむくみ始めた。微熱を伴う倦怠感が泥濘のように全身を包み込み、これが本当に自分の肉体かと驚いてしまうほど身体が言うことをきかなくなって……、とうとう最後には自力で歩くことすら難しい状態になった。
予定より一ヶ月半も早く陣痛が訪れたのは、むしろ母体にとっては幸いだったのかもしれない。さぞかし御典医たちの肝を冷やさせたことだろうけれど。
十一年前、キリエを産んだときの初産が軽かっただけに、周囲の皆も戸惑っているようだった。蒼白な顔で枕元を右往左往している夫がその筆頭だ。一国の主たる御方なのだから、いくらなんでももう少し落ち着いてほしい……とは思うものの、今のエレイソンに苦言を申し立てたところで詮なきことだろう。
波打つように全身を絡めとる陣痛。次第に近くなってくる、その間隔。
思わず敷布の端を握り締めた。肌の表面に浮き出た汗の玉が、わななく呼吸と共に滑り落ちていく。
熱い。苦しい。四肢を巡る血が沸騰しそうだ。ああ、何も考えられない。思考の輪郭が崩れて、溶ける。痛くて痛くて、もうどうにかなってしまいそうだ。
不意に目を開くと、すぐ間近で夫の碧眼と視線がぶつかった。今にも泣き出しそうな表情で、一心にこちらを覗き込んでいる。まったく仕方のない人。初めて会ったときからちっとも変わっていない。三歳年下の公太子は、昔から人の痛みに敏感だった──
わたくしにはこの人の血を残す責務があるのだ。大公家は万世一系、この国を統べる血族。『プレアデス直系を絶やすことなかれ』は不文律の掟と言ってもいい。次代を担うのがキリエ一人きりというわけには、いかない。どうしても。何があっても。
だから、頑張って生まれてきて、わたくしの大切な赤ちゃん。
母様も一緒だから。もちろん父様もついてる。
わたくしたちに、可愛いあなたのお顔を見せてちょうだい。
*
大公国暦六〇六年、風月第二日。
花燭宮の一角に設けられた産屋の中、赤子のか細い泣き声が空気を震わせた。
東の空が暁に彩られ、燦然と輝き始める刻のことである。
END
【君へありがとうを10回言おう】
お題拝借:
ユグドラシル様