六〇六年風月/キリエ
ずっと心待ちにしていた。わたしのきょうだいが生まれてくる、その日のことを。
弟でも、妹でも、ただ無事に生まれてきてほしかった。
母上はもうずっと体調が悪くて、お腹がすっかり大きくなる頃には、公務はおろか自力で歩くこともままならなくなってしまったものだから、わたしと父上は祈るような気持ちで毎日を過ごしていた。
お産というのは命がけの大仕事なのだ。まもなく十一歳を迎えるわたしも知識として承知していたけれど、母上の姿を見て、その深刻さをやっと実感した。人が、人を、産み出す。簡単なことであるはずがない。
命を繋ぐ──それは神秘の領域。運命を司る神々の加護がなくては成し遂げられない御業だろう。
産み月が近づくにつれて、母上の寝所に詰める御典医たちの人数が増えていく。父上が母上の傍に留まることが多くなり、わずかな容態の変化にもひどく神経を尖らせていた。
父上は手ずから妻のむくんでしまった足をさすり、時には湯気をたてる拭布で顔や手足を清めてさしあげることさえあった。
どうか、無事に。
花燭宮全体が祈りに包まれていた。
*
そして、やがて。
重苦しい日々の末に生まれてきたのは、小さな女の子だった。
いとも幸せそうに眠る顔を見た瞬間の感激は、きっともう生涯忘れられないだろう。
母上が長いこと床に伏していたにしては、健やかそうな愛らしい赤ちゃんだった。うっすらと薔薇色に色づいた頬、小さなちいさな唇。眠りながら微笑むなんて、どんな夢を見ているのだろうか。
わたしの、妹。
この子を守ってあげなくては。この先たとえ何があったとしても。
一目見たその刹那、全身が痺れたように強く感じた。
起こさないように、そうっと手を握ってみたら、眠っているというのに思いのほか強い力で握り返してくれて……その手の小ささと熱さに、なぜだか自然と涙がこぼれ落ちた。
産後の経過が芳しくない母上のことももちろん気がかりだったけれど、それからのわたしは生まれたての小さな妹のことばかり考えて過ごした。
名前はアリア。名づけたのは母上だ。
大公家に生まれた待望の第二子を、国全体が寿いでくれた。国内の大貴族を皮切りに、連日のように世界各国から見目麗しいお祝いの品々が届けられる。まるでお祭りのようだ。
もともとあまり丈夫でなかった母上は、身体にかかった大きな負担を癒すことに専念する生活になったものの、ひとまず危急の事態には至らなかった。出産の女神に感謝すべきだろう。
あれほど四六時中のしかかってきた心の中の澱が、アリアを見るたびにほぐされていくのが不思議だった。
妹がここにいる。ただそれだけで、こんなにも嬉しくて仕方がないなんて。
大事な、とても大切な存在。
この子が乳離れしたら、乳母に頼んで寝所を近くの部屋にしてもらおう。本を読み聞かせながら寝かしつけて、昼間は一緒に中庭をお散歩して。おやつには、甘い蜂蜜のたっぷり乗った焼き菓子を分け合いたい。
七つになれば、もちろんこの子も学舎で基礎教育を受けるだろうけれど、その前に文字を教えよう。一人で書き取りをさせるよりも、誰かが傍で見ていたほうがきっと楽しいに違いない。それに時計の読み方だとか数の数え方も。ああ、舞踏の初歩も教えてあげられる。将来は姉妹揃って夜会に出る機会も多いかもしれない──
父上と母上。わたしと、この子と。
思い描いたのは優しい未来。
望んでいたのは、家族の幸せ、だった。
END
【君へありがとうを10回言おう】
お題拝借:
ユグドラシル様