WILL
僕の代わりに泣いてくれて (1)
六二〇年花月/エルガー
「おーい。起きてっかー?」
盛大なあくびをひとつ。エルガーはさも面倒臭げな声を上げ、ぞんざいな仕草で扉を叩いた。
《クリスタロス》所員寮の一角である。すでに日勤の者は私室から出払っている時間帯で、辺りは静まり返っていた。
「返事くらいしろー、この野郎。体調悪ィんだろー?休むなら休むで連絡しろよな、ったく」
億劫そうな声を垂れ流しつつ、また扉を叩く。しばらく待ってみたが中からの反応はなし。
「起ーきーろー。無断欠勤かー?病欠なら病欠って言ってから寝ろー。おい聞いてんのかー?」
やはり反応がない。
エルガーは首を傾げた。
この部屋の主であるセレシアスが、なぜか始業時刻をすぎても一向に出勤してこないので、課長の指示で様子を見に来たのだが、こうも無反応というのはどういうことだろうか。室内にいるはずなのに。
同僚連中いわく「誰かさんと違って彼は真面目だから、きっと何かよっぽどの事態なんじゃないかな」「そういや昨日の帰り、ものすごく顔色が悪かった」「最近忙しかったみたいだし、たちの悪い風邪でも引いたのかもよ」……
エルガーの脳裏に『高熱にうなされるセレシアス』の図が浮かんだ。あの混血青年は色白でひょろ長い体型をしているせいか、少しばかり体力が乏しそうな印象がある。
もしも、仮に。寮の個室で一人きり、起き上がれず返事もできないほどの重症で倒れているとしたら。まずい、のではなかろうか。
そこまでひどい不調ならば、ただ横になっているだけでは回復しにくい。水分を補給して、栄養価の高い消化に良いものを食べて、薬を飲んで眠らなければ。
「おい、返事をしろ! セレシアス・ウェスカー!」
声量が跳ね上がり、扉を叩く手に力がこもる。
ふと、気がついた。扉の把手が動く。鍵がかけられていないのだ。
「入るぞ!」
迷わず部屋へと踏み込んだエルガーは、そこでしばし絶句することとなる。
家主の性格どおり几帳面に整頓された室内には、予想を遙かに裏切る光景が広がっていたのである。
*
三課の事務室に戻ったエルガーを一目見て、課員一同みな言葉を失って凍りついた。騒がしかった事務室が水を打ったように静まり返る。
エルガーが胸に抱えている『それ』。
誰がどう見ても、子ども、だった。
少しずつ意味の伝わる言葉を喋り始める、二歳児くらいだろうか。
問題は、その子が恐ろしくセレシアスに似ている、という点である。
目の錯覚ではない。滴る月明かりのような銀髪、桜色のつぶらな瞳。白い肌に尖った耳朶を持ち、優しげな顔立ちをした、異相の子。セレシアスに瓜二つとしか言いようがなかった。
エルガーが部屋に踏み込んだとき、室内のどこにもセレシアスの姿はなく、代わりにこの幼子が独りぼっちで寝台にうずくまっていたのだった。
「しかもこいつ、ブカブカの寝巻きを着てたんだぜ。大人物の。一体どういうことなんだろーな?」
薄い毛布にくるまれた幼児は、エルガーが見知っているどの子どもよりもおとなしい。今もきょとんとした表情で、腕の中から静かにエルガーを見上げている。
エルガーが皆に状況を説明するうちに、課長がやおら幼子を抱き取った。まじまじと見つめて「ふむ、なるほどな……」などと呟く。
「隠し子?」「分裂?」「そっくりさん?」
「どれも外れだな。これはおそらくセレシアス本人だろう」
課長いわく。最近南方では奇妙な病が流行っており、その病にかかった者は一夜にして身体が若返るのだという。重い場合にはまるっきり赤子になってしまうのだとか。
疲労などで身体の抵抗力が弱まっている状態の人がなりやすいようだが、原因は不明。
人間の肉体が著しく若返るという他に類を見ない珍しい症状を引き起こし、しかも十日ほど養生すればけろりと元に戻るというので、信心深い南の国では『神々のいたずら』などと囁かれているらしかった。
「心身遡行型感冒症状……」
誰かがぽそりと呟いた。
確かにそれならば納得がいく。
エルガーが腕の中を見下ろすと、繊細な色合いの双眸が見つめ返してきた。この事務室にいた昨日までのセレシアスは、いつもどこか怯えたような翳りのある眼差しをしていたものだが、幼児の瞳には未だなんの憂いもない。無心だ。
「……で、どうするよ。放っとくわけにもいかねーし」
「この症例を診たことのある医師を探そう。それと清和国あたりの情報だ。調べれば少しは詳細が掴めるかもしれん。ティキュ、レーゼ、至急頼む」
名指しされた二人は歯切れの良い返事と共に事務室を飛び出し、他の課員も手分けをしつつ動き始めた。
一挙に慌しくなった周囲に驚いたのか、幼いセレシアスが身じろぎする。上着を引っ掛けながら自らも足早に出て行こうとしていた課長が、それに目ざとく気づいて立ち止まり、
「しばらく面倒を見てやってくれる、よな?」
いかつい顔に浮かぶ微笑。相手の反論を一瞬にして粉砕する威力を持った、ある意味最強の念押しである。
むずかり出した子を抱えて、エルガーは無言で課長の背を見送るしかなかった。