WILL
僕の代わりに泣いてくれて (2)
*
情報収集の結果、国内でもこの病が徐々に広がりつつあることが分かった。
が、これといった特効薬がなく、普通の風邪をひいたときのように養生するより他は手の打ちようがない、と医師は申し訳なさそうに診断した。元に戻るまでの間、やはり誰かがつきっきりで面倒を見てやらねばならないわけだ。
「で、なんでオレなんだよ全く。あああ畜生てめぇ笑うな!」
「おんぶ紐がよく似合ってるわよ。意外だわぁ」
悪態をつきながら唸り声を上げるエルガー、笑いを抑えきれずに声を震わせるティキュ。
小さなセレシアスはエルガーに背負われ、人形のようにおとなしくしている。具合が悪そうな素振りもない。
世話役はなりゆきでエルガーに一任された。セレシアスと同じ独身寮で生活しているので何かと都合が良く、『エルガーなら風邪も引きそうにないから』という理由で推薦されてしまったのである。≪クリスタロス≫三課、満場一致の意見だった。
子守中のエルガーは職務専念義務を免除され、二人の分の仕事は他の皆で分担。事務方も繁忙期を過ぎて少しゆとりが出たらしく、ほとんどの同僚が入れ替わり立ち代り様子を覗きに来た。
食事は所員食堂の厨房方に頼み、子ども向けの料理を毎回作ってもらうことになった。おやつや飲み物なども、一日と空けずに他の課員が差し入れしてくれる。
衣服はどうしたものかと思案したが、子どものいる課員が自宅からそれぞれ古着を持ち寄ったおかげで、今やセレシアスの部屋は子ども服の見本市のような有様である。しかも本人が文句を言わないのを良いことに、可愛らしい色使いの刺繍が入った女児用の服を着せられていたりする。
「似合うといえば、ちびセレシアス君。女の子の服が全く違和感ないわねぇ」
「不憫だと思わねーのか。奇病にかかってこんなナリになっちまったってのに。着せ替え人形じゃあるまいしよ」
「奇病って……まあそれもそうだけど。やあねえ、大丈夫よう。この症例で大事に至った前例はないし、現にセレシアス君の体調自体には異常ないわけだし。何日かしたら元に戻るわよ」
「だからって女装させんな」
「だって可愛いじゃない」
「…………」
そんな不毛な会話をするうちに、どうやらちびセレシアスは寝入ってしまったらしい。背中からくうくうと寝息が聞こえてくる。
起こしてしまわないよう注意を払いつつ、重ねた毛布の上に幼子を横たえる。寝台では何かの拍子に落っこちてしまうといけないので、部屋中に厚手の布を敷き詰めて、さらに柔らかい毛布を畳んで寝床代わりにしているのだ。夜はエルガーもその傍で眠る。
「うへぇ、肩がヨダレまみれ……」
頭をがしがし掻いて、ため息をひとつ。
ぬるま湯に浸した手巾を絞り、眠るちびセレシアスの口元を軽く拭ってやる。子どもの肌は柔らかい分かぶれやすい。特に口周りは食べたり飲んだりしたとき以外もこうしてヨダレで汚れるので、こまめに面倒を見てやらねばならなかった。
「覚えてろよ。治ったら絶対酒おごってもらうかんなっ」
いくらおとなしいと言えど、やはり子どもというものは手がかかる。転んで泣くわ、食べたものを戻すわ、粗相して洗濯物を大量生産するわ。夜中でも数時間おきに目を覚まして何やらもにょもにょ言い出す。そのへんに置いてあるものに逐一興味を示して弄くりまわす。全くもって、少しでも目を離したら何をしでかすか分からず、気が休まる暇もない。
エルガーとティキュの視線の先で、無防備に眠る子どもが寝返りを打った。繊細な銀色の睫毛。あどけない寝顔。
「ったく、こっちの気も知らねーで」
さくらんぼ色のふくよかな唇が動いて、かすかに微笑んだようにも見えた。
*
しぼりたての果汁に蜂蜜を溶かして水で薄めた飲み物が、ちびセレシアスはお気に召したらしい。椀一杯も飲み干すと、満足してすぐに寝入ってしまう。
毛布を肩までかけ直してやり、ようやく一息ついたエルガーは、置時計に目をやって嘆息した。青珠館では午後の業務が始まった頃だろう。
「あー……眠ィ。肩が凝る……」
抱き上げたりおんぶしたりと、子どもの相手は何かと筋力を使うのだ。しかも夜は夜で変な時間帯に起こされることが多いものだから、疲れは根雪のように降り積もっていく。
しっかり身体を鍛えているエルガーでも、子守が五日十日と続くうち、さすがに身体的にきつくなり始めていた。
「ぬあー。飲みに行きてェなあ」
ぼやきながらエルガーが寝転がっていると、遠くのほうから軽快な足音が聞こえた。だんだん近づいてくる。踵の高い靴特有の、小気味良い硬質音。
「ちょっとエルガー君!」
訪いの言葉もなくいきなり飛び込んできたのはティキュだった。
しかもその形相ときたら尋常ではない。優しげな垂れ目が鋭くつり上がり、黒瞳が炯々と輝いている。
怒っている。かなり怒っている。
跳ね起きたエルガーは瞬時に悟った。そして次の一瞬には『心当たり』が無数に脳裏をかすめて行く。が、かすめただけで結局ひとつも残らない。
どちらにせよ、彼女が憤怒の女神と化した理由をこれから思い知らされることになるのだろう。エルガーはあっさり観念した。怒れるティキュの傾向と対策。二年間の付き合いの中で染みついた習性である。