2周年記念

「涙が出るんだ」 (1)



柚月様リクエスト
エルガー+シリアス風味


 いつもの飲み屋の、いつもの酒。席を陣取っているのは顔なじみの常連ばかり。
 普段通り、仕事後の一杯をやりに行っただけのはずなのに。
 こんな話になったのは、一体どうしてだろうか。
「へえ、エルガーが軍隊にいた頃のことか」
「相手はどんな女だよ?」
「たまにはアンタのそういう話も聞かせてもらわなきゃ。なあ?」
 興味本位に投げかけられる問い。なぜか不愉快ではなかった。
 そんな自分に疑問を感じつつも、オレはせがまれるままに話し始めた。

 ──とにかく鈍くさい女だった。
 ノエル・ル・セプリム。
 北部の小貴族の末娘で、医師を志して専門学府に学んだ軍医の卵。
 そういう経歴からは想像もつかない、笑ってしまうほどのトロくささだった。
 歩きながら医学書に没頭して段差に蹴躓いたり、白衣の汚れが気になるからと、ごしごし拭って余計に染みを広げてしまったり。
 『お嬢様』を絵に描いたような生活応用力のなさで、周囲の失笑を買うこともしばしば。
 そんな彼女との出会いは三年前。オレが二十の頃だ。

──… * * * …──

「あのぅ、すみません」
 よれた軍服の袖に手を通しながら振り返ると、不安そうな表情の女と目が合った。
 小柄だ。一瞬、どこの子どもが迷い込んだのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
 というのも、その女は糊のきいた白衣を着込んでいたからだ。
 麦わら色の巻き髪を襟足でひとつにまとめ、両手で分厚い資料を抱きしめている白衣の女。
 すぐピンときた。
「アンタ、もしかして新しく来た研修医の?」
「あ、はい。ノエル・ル・セプリムと申します」
 ル──貴族籍に名を連ねる者に与えられる称号である。
「オレはエルガー・クィンス。第八中隊【紫苑】所属だ」
 そして二人が今いるここは【紫苑】所属員の住まう居住区域。しかも男子寮だ。怪訝な顔でノエルを見ると、案の定な言葉が返ってきた。
「その、道に迷ってしまいまして……救護棟へはどう行ったらいいのでしょう?」
「無駄に広いからなァ、この演習基地。昨日視察に来た役人もボヤいてたぜ、見て回るだけなのに一日がかりだ、って」
「ええ、ほんとに広くてややこしい構造ですよね。すっかり方角を失ってしまって。ところでここはどの区域なんですか?」
 おいおい、いくらなんでもそこまで分からなくなる奴は珍しいぞ。
「第八中隊【紫苑】の居住区だ。ちなみに男子寮」
「えっ」
 途端、困り顔は驚き顔に衣替え。その表情の変化が新鮮で、オレはノエルに視線を吸いつけられた。
 軍隊の中じゃ、こんなに素直に感情を表に出す奴はほとんどいないから。
 軍医目指して研修中ってことは、少なくともオレより幾つか年上だろうに、ノエルのその世間ずれしてなさそうな雰囲気はなんとなく微笑ましくて……
「あっ、笑うことないじゃないですか!」
 恥ずかしげに抗議してくる彼女の表情と、腕に抱えた難解な医療論文との落差がおかしかった。


「アンタ、貴族の出なんだろ? どうして軍医なんかになりたいと思ったんだ?」
 深夜の食堂。夜間演習を終え、就寝前の香草茶で一息入れようとしたオレは、偶然同じように休憩しに来たノエルと、話すともなしに雑談をしていた。
 その頃にはオレたちはけっこう親しくなっていて、互いの個人的な事情やなんかも話すような間柄だった。
 入隊二年目にして『能力はあるが部下にすると厄介な人材』と上官の間で有名な若手軍人のオレと、成績優秀で熱心だが空回りしがちなノエル。正反対なようでいて、どこか妙に気が合ったのだ。
 食堂の入り口で顔を合わせた時、彼女が疲れているのもすぐ分かった。今日も今日とて、有り余るほどの熱意を持って仕事に打ち込んだのだろう。
 寝不足の目をこする彼女を見ているうちに、なぜそんなに頑張るのかと、ふと訊いてみたくなった。
 “大公陛下の剣と盾”と言われる公軍関係者には貴族も少なくないが、でも、どこの国を見たって、軍医なんて職種、なり手がいないのが普通なのだ。
 戦争や内乱が起これば一発で最前線送りだし、戦地では複数の重症患者を一人で診ることも珍しくない。休む間はないし、神経はすり減る一方。わずか数ヶ月で転属を嘆願した医者もいるくらいだ。
 だから、ノエルのような若い女性で軍医志望というのは、極めて稀な例だった。
「どうして、って……うーん……」
 訊かれたノエルは、眉間に皺をよせて言葉を探し始める。長ったらしい薬品名はすらすらと出てくるくせに、とオレは半分呆れた。
 悩むノエルが首を傾けるたびに、麦わら色の巻き髪が揺れる。
 色素の薄い髪と目。貴族階級によく見られる特徴だ。
 貴族の娘、それも末娘である彼女は、一体なぜ軍医になろうと思うのか。
 この大公国では、末子相続──子は成長した順に親元から独立し、残った末子が家の財産を相続する──が一般的だから、ノエルは跡取り娘だろうに。
 そんな疑念を感じたのか、ノエルはぽつぽつと語り始めた。