2周年記念

「涙が出るんだ」 (2)


「……わたしにはね、兄がいたんです」
 それは初耳だった。兄が『いた』。過去形。一瞬、相槌が遅れた。
「兄様は軍人でした。近衛師団に入れたからには大公陛下の御為に身命を捧げるんだ……って、口癖のように言っていて」
 語るノエルの目元に、ありありと悲哀の色が宿る。それだけでおおよその展開は予測できた。でもオレは、「分かった、もういい」と言えなかった。
「兄様は、幽王陛下の国際支援隊員として紛争地帯に派遣されたんです。ジュムール皇国の諜略によって、内部から侵攻されつつあった小国に」
 ジュムール皇国。“東の餓狼”と呼ばれる東領域の最有力国家だ。
 剛柔問わぬあらゆる手段を用いて、周辺の国々を勢力下に置こうとする軍事政権国。
 現在は落ち着いてきているが、幽王の晩年あたりにはしきりに不穏な動きを繰り返していた、国際社会の火薬庫だ。
「その派遣先で、兄様は死にました」
 ノエルは淡々とその言葉を発音する。オレはどんな反応をしていいのか判断がつきかね、結局ただそのまま耳を傾け続けた。
「原因は誤認。敵兵と戦って敗れたのではなく、民間人を庇ってのことでもありません。共同作戦中だった他国の兵が、支援部隊を敵と勘違いしたんです」
 ──戦場では、「なぜそんなことが?」と思うような予測不能の出来事がしばしば起こるという。
 オレには他国領域での大規模実戦の経験こそないものの、暴動の鎮圧や戦後の救援活動とかに出たことはある。
 だから分かる。確かに戦場では、予測できない出来事の方が遥かに多く起こるのだ。
 ノエルの兄の場合も、きっとそうだったのだろう。敵と味方を見誤るなんてこと、普通はまずないのだから。命令系統の混乱だの、情報の行き違いだの、何か不測の事態があったのだろう。
「攻撃された時、兄様たちは救援物資を輸送中で……応急処置に必要な簡易医療器具は手元にあり、部隊の全員が処置の仕方を知っていました。でも」
 でも、応急処置では間に合わない怪我だった。軍医は不在。傷を負った者同士が、互いに手当しあうより他はなかった。
「作戦行動中の部隊に同行する医者さえいれば、死なずに済む人が大勢いる。だから私、軍医になろうって決めたんです。短絡的かもしれませんけど」
「……そうか」
 ノエルが軍医を志す理由。熱意の源。胸の内に秘められたものを目の当たりにしたオレは、一言絞り出すのがやっとだった。
 窓から忍び入る夜風。何も塗られていないノエルの唇だけが印象に残り、切なかった。
 ──お茶はすっかり冷めきっていた。


 その日の夜は、なかなか寝付けなかった。
 耳に残るノエルの声。悲しげな、でも強い決意を感じさせる双眸。小さな背中。
 あんなに頼りなくて危なっかしいのに、彼女の芯は揺らぐことなく、しなやかに自分の道を歩いている。
 だから、彼女は頑張れるのだ。流されて、ここにいるのではないから。
 ……それに比べてオレは。
 思考が自身のことへと移っていくのを、オレは止められなかった。
 今までこういう事柄について、あまり深く考えたことはない。
 オレはいつだって色々なことを“何となく”で決めてきた。そこそこうまくいっていたし、日々真剣に生きているとは言えないまでも、いい加減な態度で人生を浪費しているつもりもなかった。
 義務教育課程を終えた後、軍に入ったのに理由はない。強いて挙げるなら、実力次第でどうにでもやっていける場所だと思ったから。
 実際、一部の上官に疎まれてはいるけれど、ここの居心地は悪くない。異能者ってだけで爪弾き者にされる地域も多いことを思えば、かなり良い環境なのだろう、とも思う。でも。
 あのノエルを前にして、果たして自分はこのままでいいのだろうか?
 ──それは、かつてない想いだった。
 同時に、自分の不甲斐なさを痛いほど自覚する。
 血の気が引くような、いたたまれないような。そんな想いが一気に膨れあがり、頭の中は混迷を極めた。
 ノエル。
 彼女の見据えているもの。それを知って、オレの中でノエルの存在が否応なしに大きくなっていったのは確かだ。
 けれど、彼女の真摯な情熱を知っているがゆえに、そしてノエルと自分との差を思い知ったがゆえに……友人として付き合う以上のことは、望むべくもなかった。

 そして、やがて。