「いッ……てぇ!」
「はい、ちょっと染みますよ〜」
消毒液に浸した布を傷口に当てられて、オレは思わず顔をしかめてしまった。
「これで“ちょっと”なのか? なんかすげェ染みるんですケド」
「ぶつくさ言わない! 一体誰が怪我人を大量生産したと思ってるんですか?」
びしり。ノエルが指さした先には、打ち身擦り傷その他諸々で満身創痍な連中の姿。軽傷とはいえ、なかなかに悲惨な様相である。
「いくら白兵戦、いくら模擬戦だからってこんな……加減ってものがあるでしょう?」
「いや、その、つまり──第7中隊【睡蓮】は精鋭揃いだし、手加減なんかしてたら調練にならないし」
この日は朝から白兵戦の模擬戦闘だった。
第七中隊対第八中隊。小隊ごとに陣形を組み、中隊長を総大将としてぶつかり合い、日没の時点で所定の区画を占拠していた方が勝ち、という極めて単純明快な訓練だ。
しばらく対峙が続き、やがて正面からぶつかって、引いて、対峙。奇襲、互いに補給線を乱し合い、奇襲、対峙。最後は総力決戦になった。
奇襲部隊のひとつを任されていたオレは、最終局面にしてようやく思うさま身体を動かすことができた、というわけだ。
「もうっ。相手を徹底的に打ち負かすだけが訓練じゃないでしょうに」
ノエルはぶつぶつ言いながらも、手際よく擦り傷の消毒をしてくれる。すっかり慣れたその手つきがなんだかやけに胸にぐっときて、オレは目を逸らした。
すぐ目の前で、躍るように揺れるノエルの髪。親しみのこもった声。清浄な白衣。びっしりと付箋の貼られた医学書。窓から差し込む柔らかな光。
──今なら言える、かもしれない。
「なあ、ノエル」
「なんですか?」
顔を上げたノエルと、視線が交わる。
「オレ、軍を辞めるよ」
「……え」
「オレさ。《クリスタロス》に、行こうと思うんだ」
相変わらず素のままの唇が、ちょっと開いたまま震えた。
──… * * * …──
「……で? それからどうなったんだ?」
いや、そんな、露骨に何かを期待する眼差しを向けられても困るんだが。
「どうもこうも。なァんもないさ。それっきり会ってないし」
酒が喉を滑り落ちていく。熱い。
周りにいる飲み仲間どもは、それ以上話の続きがないと知ると、拍子抜けしたように酒盛りを再開する。オレは輪に加わらず、とりとめのない思考の中にたゆたっていた。
──ああ、こんな話、するんじゃなかった。あの麦わら色の巻き髪が脳裏にちらついて、酒の味もろくに分かりゃしない。
ノエル。一体今頃どうしているのだろうか。
軍医志望の若い女なんて珍しいから、風当たりは強いに違いない。でもきっと、元気で、少しばかり鈍くさいあのノエルのまま、第一線で働く軍医を目指しているのだろう。
なあ、ノエル。
オレの方は全くもって相変わらずで、真っ直ぐ一直線に目標に向かってひた駆けているアンタと比べたら、今でも見劣りするかもしれない。オレとの淡い経緯なんてとっくに忘れてしまって、親の決めた婚約者か何かと結婚しているかもしれない。
でも、それでもいいんだ。
あの頃のオレに、光を見せてくれたノエル。
また会えたなら。その時は言わせてほしい。あの頃伝えられなかった『ありがとう』の一言を。
「ん、どうしたエルガー?」
不意に指さされて、手を当ててみれば。頬がなぜか濡れている。
どうして……?
ああ、そうか、酒のせいだろうか。酒が入ったくらいで涙脆くなったことなんて一度もなかったけど。でもまあ、たまにはそういうこともあるかもしれない。
あるいは、ノエル。こうして久しぶりに心の中でアンタに語りかけたせいだろうか。
「……涙が、出るんだ」
呟いたその声は、杯に注がれた蒸留酒の水面に吸い込まれていった。
END