最果ての地 (1)
六一〇年花月/セレシアス
エリッサが微笑む。
花のような面差しにふわりと浮かんだ虚ろな笑みと、そこに見え隠れする想いの断片。
長かった旅路の終着地、いよいよ彼女の生まれ故郷に近づいているのだということを、何よりも肌で感じるのかもしれない。
目の前を横切るかたちで流れる川を渡ってしまえば、そこはもう長生種の領域。北の最果ての地だ。エリッサがあれほど戻りたがっていたリュミレス樹海が、すぐ目の前に迫っているのだから。
僕はたまらなく切なくなって、でもかけるべき言葉が出てこなくて、立ち竦んだままエリッサを見つめた。
川面から吹きつけるひんやりした風に舞い上げられて、エリッサの髪が頭巾ごと大きく乱れる。
きらきらと光を吸い込む絹の肩掛けのような、乳白色をしたエリッサの髪。
わずかに笑みを湛え続ける小さな唇も、細長く伸びた優美な耳も、ただ、まぶしい。
顔にかかった長い髪をそっと直してあげても、エリッサの潤んだような蒼い瞳が焦点を結ぶことはなく、彼女の心は相変わらず遥か遠くをさまよっていた。
すでにエリッサの視界の中に僕の居場所はないのだろう。
彼女がひたむきに想いを寄せ、一心に待ちわびている相手は一人だけ。その想いゆえに心の真芯を優しく蝕まれてしまった今も、なお。
海の底に沈みゆく小石になったような気持ちで、僕はエリッサの頭巾を戻した。
彼女に向かって伸ばした手はまだ小さく、ほんのり色づいた頬に触れるために背伸びをしなければならないのが、ひどくもどかしかった。
もしも僕が大人だったら。
冷たく突き刺さる風から彼女を守れるくらい大人だったら、そうしたらエリッサはこんなふうにならずに済んだだろうか。
あるいは――もしも、僕が、いなければ。
僕は思考を振り払うように首を振った。
昔の、まだ真っすぐに僕を見てくれていた頃の彼女の姿が、不思議なほど鮮やかに脳裏によみがえる。
僕の手を引いて国中を転々とさすらい、人目を避けながらひっそりと暮らした二人きりの生活。
僕にとって世界の中心はエリッサで、エリッサのいない世界などありえなかった。
でも、もう、あの日々には帰れない。
突きつけられた現実を痛いほど分かっているのに“もしも”を思わずにはいられない自分。
手の届かない楽園にたった独りで行ってしまったエリッサ。
二人で支えあって生きていく道は閉ざされたのだ。
「約束の場所に……あの湖畔に行かなくちゃ……」と熱に浮かされたように繰り返しリュミレス樹海へ行きたがる彼女のために、僕がすべきことは他にあっただろうか。
「……行こう、エリッサ」
いつもと同じく返事はない。
繋いだ手は柔らかく、温かい。もう、それで充分なんだ。
この先は長生種たちの古里。大公国有数の秘境である奥深い樹海のどこかには、エリッサの生まれ育った郷もあるはずだ。
此岸と彼岸とを結ぶ小さな橋のたもとにさしかかったとき、ふとエリッサが繋いだ手をわずかに握り返してきた。
ほんのかすかな指先の力。それでもエリッサが名前を呼んでくれたような、そんな気がするのはなぜだろう。
思わずこぼれ落ちそうになった熱い雫を、僕は強く目を閉じることで我慢した。
耳に響くのは水流の音ばかり。
清らかな音だけが、北部特有の冴え冴えとした静寂を和らげている。まるで何かを慰めるように。
艶やかな緑色をした木葉がひとひら、水面でくるくると躍るように目の前を通り過ぎていった。
そう、川の流れは留まらない。上流から下流へ。分岐と蛇行を繰り返し、やがては海へと繋がっていく。
僕とエリッサも、いつかどこかへ辿り着く日が来るのだろうか。
視界いっぱいに悠然と広がる沈黙の樹海と、雪化粧の山脈。
互いに拠る辺のない僕らを、この世界は哀れむのか。それとも叱咤するか、拒むか。
分からなかった。
何を考えても思考は空転するばかりで、吐息のように跡形もなく消えていく。
分からない。
いつだって隣にいてくれたのはエリッサだった。
次第に名前を呼んでもらえなくなるのが辛くて、けれど何度手を伸ばしても彼女を呼び戻すことは叶わなくて。
耐え切れなくなったのはエリッサか、僕か……それすらも僕には分からない。