WILL外伝

偵察演習報告書

六二〇年雨月/ティキュ

氏名:ティキュ・カンナギ
日付:620年 雨月第9日
対象:エルガー・クィンス

 《クリスタロス》服務規定により偵察演習を行うものとする。期間は1日。

 朝、事務室の一番奥にあるエルガー君の机の上を見たら、筆記用具や書類や書き付けが散乱していて相変わらずの有様だった。たぶん本人は未処理の領収書が散らばっているところを人に見られても何とも思わないのだろう。
 この様子だと、きっと昨日、片付け始めたはいいけれど途中で定時になって、そのまま飲みに行ってしまったに違いない。なんたるずぼら。
 しかも始業間近だというのにまだ姿を見せていない。課長より遅い出勤だなんて信じがたい奴。いくら新年だからって、たるむにも程があるでしょうに。隣の席のレーゼさんはもう黙々と事務仕事を始めている。

 結局エルガー君が来たのは遅刻ぎりぎりだった。出勤するなり椅子にもたれて大あくび。たるみすぎだ。
 見るに見兼ねて眠気覚ましの冷水を飲ませようとしたら、気味が悪そうにこちらを見つめて「朝からなんだよ?」と言われてしまった。彼は仮にも公軍経験者、あまり注視していては演習だと気づかれてしまう。危ない危ない。
 自分の席に戻り、本日の予定を確認しながら苛立つ気持ちを抑え込む。
 通常どおり自分の事務をこなしながら標的を観察し、記録をとるのがこの演習なのだ。相手に感づかれてはならない。自然体でいなければ。

 仕事に取りかかってしばらくは伸びやあくびを繰り返していたエルガー君だったが、やがて集中力が出てきたのか、真面目に事務に取り組み始めた。どうやら伝票を確認しているらしい。

「飲み代も経費で落とせるといいのになー」

 落とせるわけないでしょうが! ――寸でのところで喝を飲み下すことに成功した。代償に、羽筆の先が紙面で豪快に弾け飛んでしまったけれど。
 いやいや、待て待て。冷静にならなくては。そう、彼だって本気でそんなことを考えているわけでない。監査で追求されるに決まっているのだから。いつもの軽口、悪ふざけだろう。――たぶん。
 なんとか平静と無関心を装って、自分の手元にある書類に目を落とす。公都の防災計画と防災訓練実施要領。ああ、今まさに頭の中では津波が起きようとしている。間違いない。このままでは堤防が決壊してしまいそうだ。
 平常心、平常心。注視していることを相手に悟られてはならない。

 それから昼までの時間、エルガー君はのらりくらりと事務処理を続けた。机の上は空き巣に入られた現場のように荒れたままで、片付けているのか散らかしているのか判断に苦しめられる。無秩序に積み上げられた簿冊、屑籠からこぼれ落ちたくしゃくしゃの書き損じ。山積みされた冊子の束は微妙な均衡を保ち、かろうじてレーゼさんの席になだれ落ちるのを踏み留まっているように思えた。
 整理整頓の才能が絶望的に欠けている、としか言いようがない。改めて眺めると頭痛がしてきそうだ。昼の鐘が鳴り始めるや否や、購買部目がけて駆けていってしまった席の主は、開かずの引き出しを大量生産しても気に留めやしないだろうけれど。
 彼はいつもどおり購買部で壮絶な焼きたてパン争奪戦を繰り広げて、すったもんだの挙げ句に勝ち誇りながら会計を済ませた。せっかくの芳ばしいパンはもみくちゃ、騒いでいたせいで残りの昼休みは少ないというのに、毎日毎日よく飽きないものだ。中身がはみ出てしまったパンを頓着なく頬張るエルガー君の傍で、四課の人が悔しげに彼を睨んでいた。

 午後の仕事を始めて間もなく、鎮護局から出動要請があった。現場はリィザ港。貨物船の積み荷が崩れ落ち、何人かが下敷きになっているとのことだった。どうやら積み降ろしに不手際があったらしい。
 エルガー君は課長の采配で現場に急行――嬉々として飛び出して行った――したため、観察は一時中断とする。あの様子では、怪我人の救護要員として同行したセレシアス君とちゃんと協力できるのか、大いに不安である。
 彼が戻るまでは自分の事務に没頭した。遠隔視覚の力を使えば事務室に居ながらにしてエルガー君を追跡できるだろうけれど、それでは演習の趣旨と違ってしまうように思えたからだ。
 年が変わって会計年が新しくなり、出納整理をしなければならない時期である。事務室全体が慌ただしい雰囲気だった。

 伝票を整理して控え一式を保存、決裁を経て経理部に支出状況を提出する。急ぎの事務がざっと片付いた頃には、いつのまにか時計が夕刻を示していた。すでに玻璃窓の外から薄闇が忍び寄ってきている。なにしろ新年を迎えたばかりの雨月だから、吸い込まれるように日が暮れてしまう。
 救助作業は無事に終わったのだろうかと心配になりかけた瞬間、事務室の扉が乱雑に開け放たれた。
 オレ様、ご帰還――とでも表現したらいいのだろうか、任務を終えたエルガー君が来た途端に室内が騒がしくなった。
 課長と話す口調ははっきりしているし、足取りも普段どおりのように思えたが、どうやらだいぶお疲れであるらしい。経緯の報告もそこそこに、自席の椅子に沈み込んでしまった。
 念動力は距離と質量に比例して心身にかかる負担が大きくなる。崩れ落ちた物資を動かして力を使いすぎたのだろう。一緒に戻ってきたセレシアス君がエルガー君のぶんまで代わりに報告していた。死者はなく、負傷者は霊術で癒して積み荷は全て片付けてきたとのこと。幸いにも大事には至らなかったらしい。

 そうこうするうちに定時を過ぎて、課長が二人に「ご苦労だったな。報告書は明日でかまわないぞ」と帰寮を勧めると、エルガー君は即座に、セレシアス君はためらった末に引き上げて行った。
 廊下に出て、二人の背中に労いの声をかけてみる。セレシアス君は丁寧に会釈を返してくれたけど、エルガー君は振り向きもせずに手を振って、いつもの、あのぞんざいな調子で言った。

「アンタ密偵にゃ向いてねェよ」

 ……結局、エルガー君は朝から観察されていたことに気づいていたのだった。注視しないように気をつけたつもりだったのだが、他人の意識が長時間集中して自分に向けられていれば、視線を感じなくてもそうと知れてしまうらしい。
 普段、遠隔視覚の能力を使った望遠偵察ばかりしているせいだろうか、現場で周囲に溶け込みながら標的の様子を窺う私の偵察技術は、ひどく拙いものだと思い知らされた。悔しいけれど彼の言うとおりだと思う。段階を踏んで修練する必要がある。

 目の前の通常業務ももちろん大切だが、内外の厄介事処理担当である三課員として、幅広い技術を習得していかなければならない。


 END