年に一度の……
六二〇年芽月/キリエ
花燭宮の最奥にある寝間まで辿り着いたとき、彼女はすでに疲労困憊状態に陥っていた。
手足はだるく、背に流れる白貂の肩掛けがひときわ重く感じられる。湯浴みの直前まで精緻な花冠をあしらっていた頭部などは、未だ妙な重みが残されているような気がしてならない。
ここまで歩いてこれたのが自分でも不思議なくらいである。寝台に倒れ込んだら最後、世界の反対側まで沈み込んでしまいそうだった。
「おやすみなさいませ、陛下」
「おやすみ。あなたがたも早くお仕舞いなさいね」
手際よく水差しを調え、寝室の灯りを落とした女官の一団が退出していくのを尻目に、キリエは胸の奥底から息を絞り出す。
季節は芽月の末。淡く色づく桜が国中を漣のように彩っている。
世界各国に招待状を発送したプレアデス大公国の国主生誕祝賀会は、式典、会食、懇談会と無数の段階を経て本日最大の盛り上がりを迎え、ようやっと収束に向かっていた。これであと残すところは翌朝の送迎式典だけ。慶賀使節の人々を送り出したら休息を取ることをキリエに決意させるに充分な、過密の上に濃密を重ねた日々だった。
明日も朝から予定が立て込んでいる。せめて少しでも多く眠ろう。
眉間をほぐしながら寝台に身体を向けた、その途端、視界に見慣れぬものが映り込んできた。
今朝までは確かに存在しなかったもの。いつ届けられなくなっても決して不思議ではないもの。けれど毎年決まってこの日に届けられるもの。
それはお手製の飾り紐で包まれた小さな素描帳だった。
「ラグ……」
倦怠感が一挙に吹き飛び、驚きを喜びでくるんだ呟きが唇から滑り出た。
贈られた画帳を机に乗せたのは女官の誰かだろうが、大公の私室に届け物を置いておきながら女官らが誰もそのことについて一言も報告を寄越さなかったのだから、差出人はあの宮廷絵師か、でなければ離れて暮らす幼い妹以外にあり得ない。
絵油の染みついた白衣、適当に括っただけのくすんだ金髪、どこか茫洋とした表情。いつもの学友の姿が脳裏に広がる。
側机に手燭を置いて紐を解くと、ごくありふれた装丁の素描帳がぼんやりと浮かび上がった。清雅に誂えられた寝室の中で、ただ一冊の帳面が強く異彩を放つのが感じ取れる。
一冊丸々、それはキリエだけを描き綴った画帳だった。
最初のページには苦笑しているキリエの顔が。次のページには眠そうに小首を傾げている様が。全身画もあれば横顔だけのものもある。着色はない。目に映った一瞬の情景を何気なく描き留めたような、柔らかい線と陰影だけの繊細な画風である。
絵画の回廊に展示されているような肖像画めいた構図は皆無で、くつろいだキリエの姿ばかりが何枚も何枚も……。
描き手を示す押印はないが、代わりに全てのページに日付が流麗に走り書きされている。連続して描いているときもあれば、ひと月以上の空白があるときもあった。
最も古い絵は去年の花月初日。
キリエは期待を込めてページを繰り、思わず微笑んだ。
最新の絵は芽月末日──つまり今日、キリエの誕生日当日。例年どおり、ちょうど一年分である。
……最後のページには日付以外の文字がそっと加えられていた。
END