WILL外伝

僕の代わりに泣いてくれて (2)

 しぼりたての果汁に蜂蜜を溶かして水で薄めた飲み物が、ちびセレシアスはお気に召したらしい。椀一杯も飲み干すと、満足してすぐに寝入ってしまう。
 毛布を肩までかけ直してやり、ようやく一息ついたエルガーは、置時計に目をやって嘆息した。青珠館では午後の業務が始まった頃だろう。

「あー……眠ィ。肩が凝る……」

 抱き上げたりおんぶしたりと、子どもの相手は何かと筋力を使うのだ。しかも夜は夜で変な時間帯に起こされることが多いものだから、疲れは根雪のように降り積もっていく。
 しっかり身体を鍛えているエルガーでも、子守が五日十日と続くうち、さすがに身体的にきつくなり始めていた。

「ぬあー。飲みに行きてェなあ」

 ぼやきながらエルガーが寝転がっていると、遠くのほうから軽快な足音が聞こえた。だんだん近づいてくる。踵の高い靴特有の、小気味良い硬質音。

「ちょっとエルガー君!」

 (おとな)いの言葉もなくいきなり飛び込んできたのはティキュだった。
 しかもその形相ときたら尋常ではない。優しげな垂れ目が鋭くつり上がり、黒瞳が炯々と輝いている。
 怒っている。かなり怒っている。
 跳ね起きたエルガーは瞬時に悟った。そして次の一瞬には『心当たり』が無数に脳裏をかすめて行く。が、かすめただけで結局ひとつも残らない。
 どちらにせよ、彼女が憤怒の女神と化した理由をこれから思い知らされることになるのだろう。エルガーはあっさり観念した。怒れるティキュの傾向と対策。二年間の付き合いの中で染みついた習性である。  ちびセレシアスを起こさぬよう、ひとまずティキュを廊下に押し出して。エルガーは困難に挑む神職者のような気持ちで訊ねた。

「なに怒ってるんだよ?」
「胸に手を当ててよーく考えてみなさい。
 ……と言いたいところだけど、時間の無駄でしょうから教えてあげる。エルガー君、キミね、経費の処理は溜めちゃ駄目って何度言われれば分かるのかな?」
「あっ、開かずの引き出し開けたのか!?」
「開かずの引き出しじゃないわよこの無精者。請求書も領収書も、書き損じも、報告書までゴミと一緒になってるじゃないの。主任事務員のレーゼさんに迷惑かけるって分かっててやってるの?
 『とりあえず引き出しに突っ込どきゃいーや』って、その態度をいい加減に改めなさいよ。アタシ何度も注意したわよね? 引き出しに入れておいたって自動的には片付かないのよ?
 未処理の事務を何ヶ月もあっためるなんて……ほんとにもう、神経を疑うわ。ものぐさにも程があるわよ、この酒浸り筋肉バカ!」

 最初こそ抑えた声音だったものの、言い募るうちにどんどん加熱していって、最後には廊下に罵声が響く始末だった。それでなくともティキュの声は通りが良い。滑舌も抜群。さすがに有名な劇団で主役を張れる役者だっただけのことはある。近くに誰の姿も見当たらないのがせめてもの幸いだ。

「……やー。うん。そう、だな。悪かったよ」
「この前も同じこと言ってたでしょ。全然分かってない、身に染みてない証拠!」
「いやマジほんと。反省した。気をつける。レーゼさんにも謝るよ」
「ちゃんとしてくれなきゃ困るのよ。特技にあぐらをかいて真面目に仕事をしない、っていうふうに斜に見る人だって世の中にはいるんだからね。『これだから異能者は』なんて後ろ指さされてからじゃ遅いんだってば」
「あー……」

 いつになく説教がくどい。よっぽどあの引き出しの中身が衝撃だったと見える。
 分かってはいてもなかなか手をつけられずに放置してしまったのだから、自業自得。とはいえ連日にわたる子守で気力体力をすり減らしている今は、やけにずっしりと堪える。珍しく途方に暮れてしまうエルガーだった。
 思わず肩を落とした、そのとき。
 不意に部屋の中から子どもの泣き声が上がった。火のついたような大声だ。
 慌てて室内に戻ってみれば、目を覚ましたちびセレシアスが、寝床の中にうずくまったまま大粒の涙を次々とこぼしている。開け放しの大泣きである。かつてないくらい全力で、全身で泣いているのだ。
 空腹や排泄の合図ではないようだった。遊びたいのとも違う。
 エルガーが毛布の中から拾い上げて抱きかかえ、ティキュが頭をゆったりと撫でてやるうちに、ちびセレシアスは憑き物が落ちたようにぴたりと泣き止んだ。

「一体なんだったんだ……。こんなに泣いたのは初めてだぞ」

 もしかして、とティキュが呟く。

「アタシが怒ったから、かも。不穏な空気を感じ取って、それで大泣きしたんじゃないのかしら。子どもってそのへんすごく聡いみたいだし」

 なるほど、それならあり得る。周囲の人間の感情に敏感なあたり、幼くともいかにもセレシアスらしかった。エルガーの顔に苦笑が生まれる。

「オレが泣きたい気分だったから、てっきり代わりに泣いてくれたのかと」
「……かもね。キミ、ちょっとはこの子を見習ったらいいわ」

 いつの間にか緩んだ雰囲気の中、大人二人は互いの笑みを見交わしたのだった。

 *

 発症から十二日後。元に戻ったセレシアスには、子どもの姿をしていた間の記憶が一切残っていなかった。
 それでも律儀な混血青年は結局エルガーに酒をおごり、幼子姿でしでかした振る舞いの数々を聞かされるたびごとに青ざめた。
 寮や職場での伝染が心配されたものの、セレシアスを除いてこの病にかかった《クリスタロス》所員はおらず、時が経つにつれて沈静化していった。

 その後、エルガーの事務机はやや整頓されるようになったという。


 END

【君へありがとうを10回言おう】
お題拝借:ユグドラシル様