WILL外伝

月輪画廊

六二〇年花月/キリエ

「陛下はどちらへ?」
「絵画の回廊から月輪画廊へ行かれました」
「最近頻繁に先王様方の肖像を御覧になっておられますね」

 そんな女官たちの囁きが聞こえてくるようだ。
 確かに近頃わたしは時間を作っては絵画の前に佇んでばかりいる。そのぶん花燭宮で休む時間を減らして政務に当たっていなければ、近侍長たちは快く執務室から送り出してはくれないだろう。
 睡眠時間を削ってまで私的に絵を鑑賞する必要性なんて、本来なら全くない。即位後わずか五年の大公にそんな余裕があるはずない。
 それでもわたしは、足を運ばずにはいられなかった。無数の肖像画が展示された絵画の回廊をひと巡りし、限られた者のみ入室を許される月輪画廊へ。いつもの順路をゆっくりと辿りながら、わたしは人の気配のない画廊へと進んでいった。

 湿度と室温を一定に保ち、埃と直射日光を注意深く避けた月輪画廊。
 ここには世に出回ることのない種類の絵が一手に集められ、玻璃でできた防護覆いの下から訪れる者をじっと見つめている。その中のひとつと向き合いながら、わたしは今日も呼び掛けずにはいられなかった──父上、母上、と。

 油彩で描かれた絵の中の二人は、遠い記憶の中の両親そのものだった。
 脇に添えられた日付は二十年前。二人は薔薇園の四阿で寄り添い、焼き菓子を口に入れる娘を微笑んで見ている。父は健康的な顔色をしており、母の頬はまるで少女のような鴾色。幼いわたしは髪を結い上げもせず、室内着のまま無心にお菓子を食べていた。
 その蜂蜜味の甘さや、風に漂う薔薇の香りや……その場に存在していた様々な要素が胸に鮮やかに甦って、瞬く間にわたしの涙腺は緩みかけた。

 この画廊に展示されている幾多の絵は、時代・人物共に移ろっているが、ひとつだけ共通点がある。どれも公族の私的な場面を写し取っていることだ。
 絵画の回廊で来訪者を待っている絵たちが、一様にかしこまった公式記録的な様相であるのに対して、この月輪画廊に収められているのは、親子の何気ない日常風景であったり、兄弟の健やかな寝顔であったり……大公家に属する者の私人としての顔を知ることができるような類のもの。
 今は亡い、でも確かに存在して国政に深く関与していた人たちの、生身の息吹を感じることができる。それゆえここは、今を生きる公族の執務場である“日輪”公宮と対をなす名称を冠せられたのだ。
 建国の聖母王リチェルカーレ様から父上や母上まで、この国の歴史を彩った人々がどんな表情で笑っていたのか、どんな眼差しで婚約者や祖父母を見ていたのか……その人の人柄まで自ずと感じ取れてしまうような、この月輪画廊はもうひとつの聖廟だった。

 『収穫月の午後』と題されたその絵の前でわたしが必ず足を止めてしまうのは、父上の和んだ表情がひときわ胸に堪えるからだろう。熱烈に望んで公后に迎えた妻を早くに亡くし、外憂内憂を抱え込んで走り続けねばならなかった晩年の姿が記憶に新しいだけに、なおさら。
 二十一代目国主としての『エレイソン大公陛下』は尊敬に値する謹厳さだったと思うけれど、わたしはそれ以上に、夫・父親としての父上に多大な愛敬の念を抱いていたのだ。そう──少なくとも、あの子の中に特殊な力が芽吹いていることが明らかになるまでは。

 妻と寄せ合った頬は、こんなにも柔らかに微笑んでいるのに。長子であるわたしを見つめる眼差しはこの上なく満ち足りて、穏やかな力を感じさせるのに。

 ──父上。どうしてあなたはあの子を隠してしまわれたのですか──

 いまさら問うても栓のない、答えの分かっている問いかけだ。なのに繰り返し繰り返し、わたしは父の面影に問い続ける。

 ──あの子は確かに特別な能力を備えていました。異能者は異端であると、そう定めて収容と隔離を断行していた手前、父上の苦悩はさぞ深かったことでしょう。
 でも、あの子はきっかけになれたはずです。異能者は社会に相容れない異質な存在であるという、その定義を見直す貴重な契機に、あの子はなれたはずなのですよ──

 絵画の回廊はもちろん、この場所に肖像画のない公族などただひとり、あの子だけ。歴代の一族の流れから弾き出されてしまったように思えて、わたしにはそれが堪らなく辛い。

「だから、父上。わたしはあなたとは違った方法であの子を守ります」

 もっとも、あの子自身の考えを聞いていないのだから、決意だけが先走っている感は否めないけれど。
 あの子が《クリスタロス》の象徴に奉られている以上、大公であるわたしが無闇に手を出すわけにはいかないのだ。
 まったく皮肉なことだ。国益に貢献する組織である《クリスタロス》が、大公によって私物化されることを防ぐ規約を設けた結果が、これなのだから。そして、あの子を《クリスタロス》の象徴という地位に据え付けたのも、他ならぬわたし……。

 小さな嘆息がこぼれた。
 即位からわずか五年。もしかしたらわたしは性急すぎるのかもしれない。通常なら二十年の月日を費やして築いていくものを、何もかも十年で形にしようと無理を重ねているのではないか。幾度払い除けても纏わりつく蜘蛛の糸のように、胸の中には常に不安が絡みついていた。

『……どうしようもない時はね、キリエ。大切な人に話してみるのよ』

 耳の奥に、ふわりと懐かしい母上の声が甦る。あの子を産んで身体を弱らせ、手折られた花のように逝ってしまった母上。病床にあって、さりげなくそんなことを言っていたのを覚えている。思えば母上は、いつか我が子が政務と私事の狭間で悩み悶えることを見通していたのかもしれない。
 一国を統べる者の大概がそうであるように、大公家の人間にはある種の孤独が付きまとう。なんの打算もなくただ話を聞いてくれる相手がどれほど希有であるか、妹と隔てられ両親を亡くしたわたしは、すでに身をもって知っていた。

 でも、きっと大丈夫。信頼する人に打ち明け、それからまた自分でじっくり考えてみる──時にはそんな手法もあるのだと気付かせてくれた人が、わたしにはいるのだから。

 飄々とした学友の顔を思い出しながら、わたしは静かに絵の前を離れた。ずいぶん長居をしてしまったようだ。もう執務室に戻らなくては、急ぎの決裁が間に合わなくなってしまう。
 最後に一度だけ振り返り……頭を下げて。
 律動的な足取りで歩き出したわたしの背を、誰かがそっと押してくれたような気がした。


 END