WILL外伝

風の噂

六一九年霧月/アリア

 陛下がお風邪を召されたらしい。
 休憩中の侍女たちが控え室でさえずっているのを、廊下を通りかかったアリアは偶然耳にした。
 足が勝手に歩みを中断してしまう。
 薄く開いた扉。立ち止まったアリアは衝動を堪えねばならなかった。今すぐ中に踏み込んで詳細を聞きだしたい。
 はしたない振る舞いだと分かっていても、そっと聞き耳を立ててしまうのは自制できなかった。

 どうやら、先ほど夢路御殿を訪れたセルペンティス会長が同行した長老会員とそんな内容の会話をしているのを、お茶を給仕しようと応接室に入った侍女の聴覚が拾ったようである。

「ちらっと聞いた限りじゃ、会長さんも他のどなたかから聞いたみたいだったんだけどね」
「まああ。心配ねぇ。激務続きでお疲れなのかしら、陛下」
「そういえば亡くなられた公后さまも御身体があまり丈夫なほうではなかったよねぇ」

 ここで働く侍女は、セルペンティス会長が選りすぐって雇っただけあって、髪結いや衣類装飾品の管理、給仕や掃除などに熟練した年嵩の女性が多い。
 御殿内で見聞きした物事を外に漏らすことのないよう徹底した指導を受けている彼女たちだったが、揃いのお仕着せを身につけた仲間内では多少口も緩くなるのだろう。
 この閉ざされた邸はごく限られた者しか出入りできず、つまり外部からの刺激はないに等しいのだ。アリアが耳をそばだてているとも知らず、控え室の中では高貴な人の噂が格好の話題となっていた。

 陛下のことを聞きたくて耳をすませているうちに、侍女たちの会話は渓流のように滔々と流れていく。

「丈夫でないといえば、ほら、陛下の妹君。ご生誕のときに記事が新事誌に載ってたけど、その後はちっとも話題にならないねぇ?」
「ああ第二公女殿下。そうねぇ……たしか長期静養中っていう話だけど」
「いくら未成年でも、これだけ音沙汰のない公族の方っていうのも珍しくない?」

 身の縮む思いがした。一瞬青ざめたアリアだったが、すぐに気を取り直す。
 侍女たちは御殿の主がその第二公女だとは知らないのだ。大丈夫、ただの世間話だ。
 跳ね上がった鼓動を落ち着かせようと深く息を吸い込んだそのとき、扉の向こうで一人の侍女がおもむろに言った。

「わたしが小耳に挟んだ話じゃあ、なんでも治療のために外国へ行かれるってことらしいけど、本当かねぇ?」
「えええええっ!?」

 異口同音に上がる驚きの声。
 思わず一緒になって声を出しそうになったアリアは、とっさに口を両手で押さえて事なきを得た。

「なにそれ。大変なことじゃない!」
「いえね、わたしも又聞きっていうか、噂話の類なんだけど」
「まああ……、噂にしたって尋常じゃないでしょうそれは……」

 ひとしきり驚愕をかみしめた後、次第に侍女たちの声が湿り気を帯びていった。

「おいたわしいわねえ。一体どんなご病気なのかしら……」
「まだ十五歳くらいでしょうにねえ……」
「陛下もさぞご憂慮されていることでしょうねえ」

 聞き耳を立てながら、アリアは金魚のように喘いだ。
 不確かな情報だという前置きだったのに、いつの間にやらほぼ事実のようにして受け取られている──気がする。
 それからなおも『第二公女の噂話』は続き、アリアは控え室の前で一人慌てふためく羽目になった。

 訂正したくてもできないのは、非常に心臓に悪い状況である。ひととおり侍女たちの雑談を聞いてしまったアリアは、胸を押さえて立ち聞きを後悔した。もはやちょっぴり涙目だ。
 しおしおとその場から立ち去りながら、陛下が風邪という話も本当はどうだか怪しいかも、と思った。


 END

【遠くの人へ5のお題】
alamoana様より拝借