あの人は今
六一〇年霧月/セレシアス
──いつまでもエリッサのそばにいたい。
──こうなってしまった以上、もうエリッサのそばにはいられない。
相反する想いは蜘蛛の糸のように絡まりあい、絶え間なく蠢いては少年を苛む。
追憶と願い。胸に刻まれた致命傷。
千々に乱れた感情はいっかな薄れず、むしろ凝縮された芯となって胸の底に沈んでいく。
エリッサ。
触れれば痛むと知れきっていて、なおも呼びかけずにはいられない。
繋いだ手をそっと離した、あの瞬間。
くりかえし思い出す。
エリッサ。かけがえのないひと。
心の中に浮かぶ彼女は花のように美しく……あの日と同じ、遠く虚ろな微笑を宿していた。
*
左肩が、ひどく痛んだ。
骨が折れた様子はない。腕は動くのだから神経に障りもないはずだ。
石をぶつけられた直後の、呼吸がひきつれるような痛みはだいぶ薄れていたけれど、時折ふとした拍子にぶりかえしては傷の存在を主張するのだった。
少年は薄汚れ、傷だらけだった。
未だ伸びきらない手足は細く頼りなく、ただでさえ身の丈に合わない粗末な衣服の中で、溺れるようにして裾や胴回りを持て余している。
羽織った外套は明らかに大人用だ。丸めた背がいっそう際立ち、奇異の目を集める。
あれから、どのくらい経っただろうか。
旅路の末に樹海へたどり着いたときは春だった。今はもう外套があっても肌寒い。
目的もなくさまよい、人通りの多い表街道を避けて露天に寝起きする日々。
空腹には慣れた。身なりなどどうでもいい。
わずかな路銀はとうに尽きていたが、十二の子どもに稼ぐすべはなかった。──忌まれる身ではなおさらだ。
見知らぬ街の、すすけた裏通り。
風が運んでくるざわめきは遠く、ふと見上げた空は遙か高い。
朦朧とした意識の中で、その澄んだ青さが、きりりと胸に沁みた。
エリッサの瞳と同じ色だ……。
生まれ育った樹海のふるさとに帰り、少しは心静かな時間を過ごせているだろうか。
みどり深い湖のほとり、約束の場所で、今もひっそりと待ち続けているのだろう。
あの夢見るまなざしで、じっと木々の間を見つめながら。
取り残されて、独りきり。
エリッサの隣を離れた途端に世界から色彩が失せてしまった。
けれどエリッサが穏やかに過ごせるのなら、それでかまわない。
潮騒の心地良い浜辺で砂の城を作った、あの優しい日には、もう二度と戻れなくても──
路地の壁にもたれているうちに、身体を動かすのが億劫になってくる。
目を閉じた。
暗闇に浮かんでくるエリッサの姿。
無垢に微笑む幻に、そっと一言をつぶやいた。
END
【遠くの人へ5のお題】
alamoana様より拝借