風薫り、鳥たちが舞い躍る草月。
北方の島国プレアデス大公国でも過ごしやすい陽気の日々が続き、草月晴れと呼ばれる爽やかな青空が毎日のように広がっている。
そんな風景を窓越しに見つめると、アリアは手の中で弄っていた羽筆をついに置いた。
机の上に広げられているのは便箋だ。言い回しが気に入らなくては破棄し、筆跡に納得がいかなくては破棄しているので、先程からちっとも進んでいない。屑籠の中身が増えるばかりである。
手紙なのだから相手の文面に対する返事を書けばいい、ただそれだけのことなのに。
すっかり冷めてしまったお茶を飲み干して、気分を変えようと窓を開けてみる。
「ぅあっ」
両開きの窓を押し開いた途端、机上の便箋が一斉に乱舞したから驚いた。こんなに風が強いだなんてちっとも気づかなかった、と慌てて掴もうとしてもすでに遅い。書きかけの手紙は軽やかに舞い躍り、部屋のあちこちへと散らばってしまった。
全く、もう今日は日が悪いのかもしれない。無理に返事を書いても意味がないのだから、続きは明日に回すとしようか──
便箋を広い集める手が、ふと止まった。
「これって……」
拾い上げた紙片は一枚だけ妙に古びており、その文面を目にしたアリアはぎくりとした。
見覚えのある筆跡。真新しい便箋に混じって文箱の中から出てきたのは、かつて幼いアリアが書き綴った──ついに相手に届くことのなかった、一通の手紙だった。
出せなかった手紙をこんなところにしまい込んだなんて、すっかり忘れていた。ただ昔の筆跡が懐かしくて、読むともなしに眺めてしまう。
“寂しい”
“姉上に会いたい…”
たった一人の肉親である姉に宛てた手紙。だがそれはどちらかというと日記に近いものだった。
アリアが五歳で『夢路御殿』に入ってから七年経つ。その間に父が亡くなり、国葬が執り行われ、そして姉キリエが第二十二代大公として即位した。
血の繋がった家族にまつわる出来事なのに、どこか遠い場所で全てが滞りなく処理されていく。こうやって様々な物事に一切関与することなく年月を送るのだろうか。
ただ未来を夢に垣間見て、存在を忘れ去られたまま、この美しい御殿でひっそりと──
時折、寂しくて胸が苦しくなる。そんなときに羽筆を取ると、出来上がるのは大概こんな手紙とも日記ともつかない文だった。
こんなもの、姉の目に触れさせられるわけがない。法制改革に外交に視察にと、誰よりも多忙な日々を送っているのであろうあの人に、こんな漠然とした不安や寂しさを訴えて何になるというのだ。心配をかけるだけに決まっている。
そもそも、大公と夢見姫はそう簡単には会うことなど叶わぬ立場。
公族と《クリスタロス》の癒着を防ぐための予防線だと教えてくれた当人である姉が、緊急事態でもないのに戒めを破って会いに来てくれるはずはない。もう心身に染み込んだ事実だった。
そう。思い出した。
何にもならないと分かっているのにこんな手紙を綴ってしまう自分が嫌で、かといって自分の正直な気持ちを握り潰すこともできず、隠すようにして文箱の奥深くへと突っ込んだのだ。
結局姉に出した返事には、“元気にしています。姉上もお身体に気を付けて”というような当たり障りのないことを書いた記憶がある。
こまめに手紙をくれる姉に、なんと返事を書けばいいのだろう。戸惑うようになったのは一体いつからだろうか。
つい先日送られてきたばかりの封筒はまだかすかに薔薇の匂いがする。姉によく似た甘くて気高い香り。その芳醇さが、なぜか胸に痛い。
「姉上……」
誰にも届かなかった呼びかけは、いつまでも自分の周囲をふわふわ漂っているかに思われた。
──… * * * …──
『夢路御殿』の外苑でも薔薇がいよいよ盛りを迎えた頃。
アリアの鬱屈した想いは伸縮を繰り返しながらやがて大きく膨れ上がっていく。無難な文面を綴ることすら厭わしく、姉への返信は途絶えがちになっていた。
気分転換にと書架室へ入り浸る時間が長くなった。
最近のお気に入りは世界各国の説話集で、その中でも特に自国の最初の大公・建国の聖母王に関するものに関心を抱いていた。
やがて唯一無二の姓なき血族の始祖となる女性──リチェルカーレの生い立ち、言動、業績等が詳細に記された説話は際立って多い。彼女を主役に据えた戯曲や小説すら存在するのだ。
(今日はこういう本を読んだ、こんな記事が面白かったとか、そういうことを手紙に書けばいいんだろうけど)
気は進まなかった。
無論、どんなことを書いたとしても姉はきっと丁寧に返事をくれると分かっている。だからこそ、あまり雑多なことを書いて困らせたくないのだ。