大公の住まい、花燭宮にて。
「痛っ」
「いかがなさいました、陛下!?」
手を濯ぐための陶器の中に指先を差し入れた途端、玲瓏たる金髪の貴婦人が小さく声を上げた。
すぐさま駆け寄ってきた女官に、貴婦人──キリエはなんでもないと苦笑する。
「少し水が染みただけですから」
「お指ですか? 念のため医師を」
大仰に心配する女官の目は真剣だ。キリエは困ってしまった。職務に熱心なのはありがたいが、まさか針で刺したくらいで医者が必要とも思えないので、丁重に断るしかない。
それでも侍女がまだ気遣わしげな表情だったので、キリエは白状した。
「実はね、縫い物をしたのです。どうしても自分でやりたかったの。それで少し針先で突いてしまっただけです」
女官は驚いたようだったが、キリエとしてはそれ以上の詮索はされたくなかった。この話はこれでおしまい、というように視線を移す。
中庭へ向けて張り出した窓際には、薔薇の花束が銀色の花瓶に活けられていた。
この季節、宮全体がほのかな薔薇色に香りづく。先ほど手を洗った水にも薔薇の香料が垂らされているし、大臣たちの執務室にも控えめに飾られている。
花を愛で、海や山を敬う。もともとそういう民族性なのである。若い女大公が特別に花びらを集めて乾かしても、別に不審がられはしなかった。
「そういえば、ラグ──宮廷絵師のシュトーレン氏が戻ってきたそうですね」
「は、はい。先ほどは宮廷絵画協会の方にいらしたようです。お会いになられますか?」
「予定は空いている?」
「本日ですと……アルデバラン公爵様のご面会、それから馬車道の整備についての陳情の事前説明。夜は宰相閣下ご主催の懇談会となっております。その後でしたら」
女官が述べる間にも、別の近仕女官たちがキリエの衣装を手際よく整えていく。
二、三の応酬の後、女官は宮廷絵画協会へ連絡をつけるために辞去していった。
その後ろ姿を見送るキリエの脳裏に浮かんでいたのは、放浪癖のある学友の顔ではなかった。ラグに会える。そう思うと、どことなく気持ちが和むのだが、意識野にちらつくのはやはり妹のことなのだった。
手紙には、流麗な筆跡できちんとしたことが書かれている。それが逆に気がかりだった。
作法に適った文面を見るたび、強く思わずにはいられない。
まだ十二歳。自分を押し込め、律することばかりに長けるには少し早すぎやしないだろうか。
この複雑な一連の想いを精確に伝える術をキリエは持たず、不定形の願いを込めて匂い袋を縫った。
添え文をつけなかったのではない。つけられなかったのだ。
突然送られてきた贈り物を、妹がどう受け取るかは分からないけれど……今この部屋に満ちているのと同じ優しい香りを、ただ喜んでくれるといい。
キリエは窓の外を眺めた。
公都リィザの三分の一近くを占める行政庁区画の東隅に《クリスタロス》本部がある。その所有敷地の最奥、清められた御殿に、あの子はいる。
視界が不意に翳った。
仰ぎ見た空へ、一羽の大きな鳥が飛び立っていった。
草月。
都は薔薇の季節だった。
END