007. 森の木霊
穢れ。
澱み、濁った気配がある。いつ暴発するか分からない危うさを秘めたまま、『それ』は人知れず蠢いていた。
少しずつ、少しずつ、その気配は存在感を増してゆく。おぞましき力を蓄え、纏い、刻が経つにつれ強大になるのだ。
今はまだいい、じっと身を潜めているのだから。だがいったん『それ』が動き出したなら、生半可なことでは止められない。
不浄のもの。災厄。迷える死者の、なれの果て。
人間たちは『それ』を、こう呼んでいた。『幽鬼』と。
*
樹齢二百年にもなる大樹。それが泪の生みの親である。
夜風に誘われ、幾万もの葉がざわりと揺れる。心地良い葉擦れ音。張り出すように伸びた枝に腰掛けて、泪はじっと目を凝らしていた。
『それ』の気配は日毎に濃く、強くなっていく。人外の者である彼女には、その変化がはっきりと肌で感じられた。
(危ない。とても危ない……)
恨みや憎しみを抱いて絶命した人間は、死して後に亡霊となる。亡霊となり、やがて異形の化け物、すなわち幽鬼へと転化する。
幽鬼に成り果てたら最後、生きとし生ける全てのものに牙を剥き、退治されるその瞬間まで、忌むべき力を振るって災いを撒き続ける。
この日本という島国は、決して根絶できないそんな災厄を抱え込んでいるのだ。平安の世から一千年。現在に至るまで、人間たちの苦悩は連綿と続いていた。
幽鬼は非常に危険な存在だ。人間にとってはもちろん、泪のような霊的存在──精霊にとってもそれは同じ。
低級な幽鬼ならば、転化後すぐさま暴れ出し、結果として早期に退治されることが多い。しかし、泪が注視している『それ』は、無闇に動かず、じっと己の力が満ちるのを待っている。かなりの脅威力を内包しているのは、まず疑いようがない。
そして時が来れば、『それ』は蓄積した力を、委細構わず解放するだろう。そうならないうちに、手遅れにならないうちに対処しなくては。
(早く、昇天させなければ駄目……)
だがしかし、いかに鎮守の森の精霊とはいえ、泪はまだ歳若い部類に入る。他の精霊の助力も期待できない。広い樹海の中には多くの精霊が暮らしているはずなのだが、この近辺に棲んでいるのは泪だけだからだ。
すでに『それ』は、若い精霊一人の手に負えるような代物ではなかった。
(このままではいけない)
手を出すこともできず、泪はただ焦燥ばかりを募らせる。
夜闇に包まれた森。月すら呼吸を止めたような静寂を打ち破り、泪の前に人間の娘が現れたのは、そんな折だった。
漆黒の双眸が、泪の目をひたりと見据えてくる。
精霊の名は泪。木霊と呼ばれる森の精霊。
娘の名は瑠神 悠風。霊術士と呼ばれる幽鬼退治の専門家。
二人は出会い、やがて主従の契約を結ぶこととなるのだが、それはまだほんの少しだけ後の話である。
END