ファンタジースキーさんに100のお題

008. さらなる力 (1)


「う……」

 薄暗い部屋の中、彼はかすかに身じろぎした。
 歳の頃なら二十歳ほど。どことなく優しげな面差しの青年である。しかし長めの銀髪は乱れ、白い睫毛に縁取られた目元には憔悴の色が濃い。目を開けても、彼の藤色の瞳はなかなか焦点を結ばなかった。
 そのままぼんやりと視線を泳がせ、意識が浮上してくるのを待った。目の前には、ずらりと並べられた書籍の数々と、細かな書きつけが数枚。
 そこは寮の自室だった。二人部屋なのだが、ルームメイトの姿は見当たらない。まだ仕事中なのだろう。
 カーテンは無造作に開かれたまま。夕暮れ時の細い赤光が、冷えた頬を柔らかに撫でていた。

「あー……寝ちゃったのか」

 文机に広がった参考書に目を落とし、思わず嘆息した。
 今日は夜勤がある。その前に、提出期限の迫った課題を片付けようと、奮闘していたのだが……どうやら疲れが出てしまったらしい。ここのところ、まともに寝ていないのだ。よんどころない事情で、途切れ途切れの仮眠でやり過ごす日々が続いていた。
 それでも身体を動かしていれば大丈夫なのだが、机に向かうとやはり眠くなる。VS睡魔、完敗。

「ああ、もうこんな時間だ」

 壁時計を見上げると、すでに勤務に入らねばならない時刻が近づいていた。文机に突っ伏して寝たため首や腰が軋むが、構ってなどいられない。青年──フェルンは慌てて身支度を始めた。


 *


 ガーベルティーナ王国、“0の城”。
 ここは、国全体を動かす人々が集い暮らしている、国の中枢部である。
 代々≪神の名≫を受け継ぐ国王陛下が、その筆頭。王の下、四種類の専門官が各々仕事を果たすことによって、この国は有機的に機能している。
 四種類の内訳は、軍武官・魔導官・政務官・神務官。軍武官と魔導官は人を守るために在り、政務官と神務官は幸せな生活を築くために在る。
 そして、そんな専門官を目指し、見習いのような立場で働いているのが、フェルンたち候補生である。候補生は各種専門職の仕事を体験し、己の適性を測りながら城で生活している。やがて相応の実力がつけば、正式に専門を決め、専門官として働くことができる、というわけだ。若い候補生たちは切磋琢磨し、理想に向けて日々努力しているのであった。

 フェルンは、今年選抜試験に通ったばかりの新規候補生だった。
 季節は秋。城へやって来てから数ヶ月が経っている。初めての寮生活にもいつの間にか慣れ、仕事や勉学に追われる目まぐるしい日々を、なかなか楽しんでいた。
 そんなある日のこと。
 一体どういうわけだか、いきなり城内に恋愛シーズンの気配が漂い始めた。誰それが何某に告白した、付き合い始めただのいう噂が、さも楽しげに飛び交うのである。

「よし、俺も勇気を出して……!」

 あっさりラブ空気に感染したフェルンは、柄にもなく一念発起してしまう。以前から密かに想いを寄せていた相手に、好意を伝えたのである。
 しかも、思いもよらなかったことに、想い人はその気持ちを受け入れてくれた。後から考えれば、それが全ての元凶だったのだが……真っ赤になって想いのたけを告げるフェルンは、その告白が後の自分にどんな影響をもたらすのか、考えもしなかった。

「うう……ふらふらする……」

 鈍く痛む頭を押さえながら、フェルンは正門へと向かう。
 城の外に続く通路には、仕事を終えた候補生や専門官の姿がちらほらと見えた。もうすぐ交代の時間だ。急がなくては。軋む身体に鞭打ち、フェルンが歩を速めかけた時。

「フェルンだー!」

 不意に背後から声がかけられた。ふらりと振り返ってみれば、見知った人影がひとつ。

「今からお仕事?」

 手を振ってこちらに歩いてきたのは、同期候補生の少女だった。夕陽に色づく長い銀髪、アイスブルーの瞳。涼やかな外見なのだが、不思議と冷たい印象はない。ぱたぱたと駆け寄ってくる様子は、まるで子犬のようでもあった。
 彼女──ルリアは、首を傾げてフェルンを覗き込む。

「あれ? なんかすごく疲れてるけどどうしたの?」

 不思議そうに問われて、思わずフェルンは口篭もった。
 疲労の原因は二つある。一つは期限の迫った課題。だがこれはささやかなものだ。問題なのは、もう片方の原因。
 フェルンが告白した相手は、畏れ多いことに高官だった。
 ガーベ・アルメー・セリーザ。肩までの銀髪と真紅の瞳がひどく清雅な女性。全ての軍武官を取り仕切る最高責任者、軍武官長閣下である。
 ガーベルティーナの月──月姫と呼ばれる彼女には、当然ながらファンが多い。一介の候補生でありながら、ちゃっかり彼女の恋人に収まったフェルンに対し、熱狂的な月姫ファンが黙っているはずもなく、かくして闇討ちラッシュが始まった。
 中でも特に怒り狂っているのが、月姫の実兄ツァオバー・イレインである。妹を溺愛しているイレインにしてみれば、どこの馬の骨とも分からないフェルンなんぞ、妹に纏わりつく悪い虫以外の何物でもない。城内で出会うたび、イレインは子どもじみた嫌がらせをしてくるようになった。
 いつ襲撃があるか分からないとあっては、おちおち眠ってもいられない。そんなわけで、フェルンの寝不足と神経衰弱は、告白当日の夜から続いていたのである。
 そんな理由には全く気づかない、のほほん天然娘ルリア。心底不思議そうにこちらを見ているが、彼女に事情を説明するには、残り少ない気力をかき集めねばならない。なんだかもう、フェルンはため息しか出てこなかった。

「いやぁ……まあ、色々だな」

 などと言って、お茶を濁してしまった。ついでに話を逸らす。

「神務官長閣下にお会いしたのか?」

 ルリアは、神務官長ガーベ・ハイリヒ・ザイスの恋人だった。
 いつも優しい笑顔を浮かべたザイス氏は、柔和な好人物である──表面上は。彼の内実は、語るのも憚られるほど色々な意味で恐ろしい、らしい。
 『らしい』というのは、深く踏み込もうとした者は例外なく城を去る結果になるため、確認が取れないのである。
けれどもルリアは、そんな噂にも怯まなかった。恐れを知らず、果敢に彼への想いを告げ……見事、ルリアはザイスの『彼女』に昇格した。ルリアがチャレンジャーと評される所以である。

「うん! さっきねぇ、会ってきたの。なんだか、今日はとっても優しくて、帰りににっこり笑って『元気爆発栄養ドリンク』までくれたんだよ~?」

 この上なく嬉しそうに語るルリア。

「元気……爆発?」

 胡散臭い名前だ。怪しい。露骨に怪しすぎる。しかもその出所はあのザイスである。何か良からぬ企みがあるに違いない。
 なのに、なんの疑問もなく話すルリアを見て、フェルンはさらに頭痛がひどくなるのを自覚した。
 顔をしかめるフェルンを見上げて、ルリアは言った。

「あっ、そうだ。これフェルンにあげる。なんだか、いっぱいあるみたいなこと言ってたし。倒れたりしたら大変だもの!」
「いや、そんな怪しいモノ飲んだら、余計にぶっ倒れそうなんですけど」

 とは言えず、手渡されるまま、フェルンは怪しい飲料を受け取ってしまった。

「あ……ありがとぅ……」

 ルリアは真面目に心配してくれているのだ。それはありがたい。本当にありがたいのだが。

「フェルン? 本当に顔色悪いよ? ちゃんとそれ飲んでね!」

 真摯な目で見つめられて、結局何も言えないフェルンであった。
 じゃあ私帰るね、とルリアは踵を返し、ふと思い出したように呟く。

「あっ、そだ。明日ちゃんとザイス様に言わなくちゃ。フェルンにあげちゃった、って」
「ええっ!?」

 狼狽するフェルン。血相が変わったのが自分でも分かった。ちょっと待って、と引き留めようとしたが、もう遅い。ルリアはあっという間に見えなくなってしまった。
 取り残されたのは、先程より顔面蒼白度が上昇したフェルン独り。