ファンタジースキーさんに100のお題

014. 高級マツタケ


「なあサルビア」

 呼びかけられて、サルビアは紅茶を淹れる手を止めた。
 部屋にかぐわしい香気が漂っている。こんな窓のない地下室でも、内装を整えてティーセットを持ち込みでもすればそれなりに居心地がよくなるものだと、来るたびに少しばかり感心させられる馴染みの場所。
 地下組織≪桜花≫の暗殺班・“夜刀”が、打合せに使っている隠し地下室である。
 この部屋で、ひと仕事終えた“夜刀”の面々にお茶を振る舞うのが、サルビアの習慣となっていた。

「彼女、いつもお茶飲まないよな。それって前から?」

 何気なく訊ねてきた悠二は、明るい髪色とサングラスが人目を惹く青年だ。声も柔らかく、サルビアから見てもかなりの器量よしであるのは否めない。
 一方、「人の警戒心を薄れさせることにかけては自信がある」と自分で言っているように、己の容姿や言動がどのように使えるかを熟知している、したたかな面もあるのだが。

 『彼女』と悠二が指し示したのは、今はここにいない彼らのリーダーのことである。エーデルワイスと名乗る彼女は、任務の前後に何も食べないのだ。ミッション──暗殺作業──の後は特に、飲み物でさえ一切口に入れようとしない。サルビアが淹れる薫り高い紅茶すら受けつけないのを、悠二は慮っているのだろう。

「そうね。前からよ」

 少なくともサルビアの知る限り、エーデルワイスが飲食していたという記憶はない。彼女と接触する場合は例外なく任務が絡んでいるからだろうか。“夜刀”としての初任務以降、エーデルワイスの肌はますます透き通り、近頃では臈長けた人形めいて美しく、そして危うい。

「俺たちが来る前からってこと?」
「ええ」
「美味いのにな、サルビアの紅茶」

 飲み干したカップを置きながら、気がなさそうに呟いたのは将だった。優男ふうの悠二とは対照的に、大雑把な少年がそのまま大きくなったような見かけの青年である。サルビアがお茶を注ぎ足すのを待ってから、ふと思いついたように続ける。

「こだわり、ってのじゃないのか」
「こだわり?」
「ほら、よくあるじゃんか。靴下は右から履くとか、歯は上から磨くとか。そうしないとなんとなく気持ち悪いって奴、あるだろ?」
「任務前後に何も口に入れないのが、か?」
「さあな。実際のところは本人しか分かんねえよ、そんなこと。どっちにしろ、飲めねえってのを無理に飲ますわけにはいかないだろ」
「そりゃそうだけど」

 二人の会話を聞きながら、サルビアはそっと息を吐いた。淹れたての紅茶は柔らかな朱色。お茶請けは某人気製菓業者の手作り風バターサンドクッキー。カップに触れる指先からほんのりと温まっていく。
 こうしていると、午前二時という時間帯すら忘れて気持ちがほぐされるのだ。だから、あの少女にこそ飲んでほしいのに。友人のツテで個人輸入した葉も、選りすぐって用意した茶器も、彼女に手をつけてもらえないのでは……。

 優しい湯気をたてるお茶の表面に、沈んだ顔の女がゆらりと浮かんでいた。

「……でもさ、本当に彼女ってなんでも一人でできるのな」
「あー、そうだなあ。今日なんかオレらほとんど出る幕なかったし」
「センサーの復旧が予想外に早かったのには焦ったけど、結局彼女が一人でなんとかしてくれたもんなァ」

 今夜、やけに悠二はリーダーを話題にする。彼女に対して思うところでもあったのだろうか。
 もっとも、彼が以前「エーデルワイスのような力が欲しい」と呟くのをサルビアは耳にしたことがある。闇の世界に潜り込んできた動機が動機だけに、エーデルワイスの持つ圧倒的な技能に悠二が惹かれるのは無理もない。

「さすがは鋼鉄の暗殺者、ヒイラギの懐刀、≪桜花≫の至宝──ってとこか?」

 将が唄うような口調で揶揄すると、悠二は首を傾げた。

「そう言われてるのか、彼女?」
「オレが研修を受けた講師たちはそう言ってた。至宝だなんて大袈裟なって思ってたんだけど、実際めちゃくちゃ凄まじいもんな」

 褒めているのに将の瞳が冷めているのは、ただ単に事実を口にしただけだからだろうか。

「彼女は特別なの」

 思わずサルビアは口を開いていた。
 余分なことは語るべきでないと充分に承知していながら、胸の内から溢れ出る言葉を抑えられない。この二人には、彼女と共に殺しに携わる彼らにだけは、ほんのひとかけらでいいから理解していてほしかった。

「右に並ぶ者のない技能を持つ≪桜花≫の実働隊長。闇の住人でその名を知らぬ者はいないわ。そう……誰もが畏怖する第一級の死神として彼女が名を上げたことで、≪桜花≫の力は強固に裏打ちされたの」

 だから、彼女は至宝なのだ。
 最高の闇技術者エーデルワイスを擁する≪桜花≫には、手を出したくてもまず不可能。ヒイラギを護り、手足となって闇を駆ける孤高の存在がある限り。

(そう在るために、彼女がどれほど己をすり減らしているかを……お茶も飲めないくらい張り詰めたまま生きることが、途方もない苦行なのだということを……)

 最も肝心なことは言葉にならなかった。これ以上は赦されない。地下組織≪桜花≫では、互いの私事へは絶対不干渉が鉄則である。悠二や将の抱える傷が彼らだけのものであるように、エーデルワイスの痛みもまた彼女だけのものだった。

 そんなサルビアの想いをよそに、二人はごく普通に会話を交わしている。

「ふうん。暗殺稼業者の中の死神、か」

 将が淡々と呟くと、悠二は何を思い出したのか妙に陶酔したような表情になった。

「いわば宝石の中のダイヤモンドだな」
「じゃあ、獣の中の獅子ってのはどうだ」
「おっ、ショウ、お前さんにしちゃ上手いこと言うな」
「へっ、伊達にヒマ人してねーよ。オレとしたことが、この頃すっかり読書漬けだからな」
「んじゃ、ちょいと風雅に、花の中の薔薇でどうだ」
「薔薇って好きくない。秋の味覚の中のマツタケ」
「結局食い気かよ。ってか、お前さんクッキー一人で食い過ぎ」

 ……サルビアは天上を仰ぎ見た。
 ダイヤモンドだのマツタケだのに喩えられた少女のことが気がかりだった。この二人は殊更にふざけることで脳裏から苦悩や罪悪感を閉め出そうとするが、エーデルワイスは違う。闇夜のただなかに独りきり、静かに耐えているのだろう。

 簡単にすげ替えの利く駒として利用される者の多いこの地下世界において、唯一無二の存在であり、常に誇りをもっているエーデルワイス。それが彼女の望む生き方だと知っていても、サルビアは胸を痛めずにはいられない。
 あの少女が全身に纏う引き絞られた弦にも似た緊張感は、いつか彼女自身を壊してしまう──そんな埒もない予感が頭から離れないのだった。出会ったときからずっとだ。

 地下室で紅茶を淹れるとき、サルビアは何度も祈る。
 どうか、彼女にひとひらの安らぎを。
 過酷な道を自ら選び取った彼女が、その重圧に潰されてしまわないように。
 あの清冽なる魂に、わずかでもいい、安息を。

 祈りは湯気と一緒にゆるりと立ち上ってゆく。


イラスト:KT様