019. 最初の冒険 (1)
遠くから夕風に乗って運ばれてくる喚声に、葛葉はじっと耳を澄ませていた。
不穏な気配は刻一刻と濃くなりつつある。欄干を越えて吹き込んでくるのは、わずかばかりの異臭。火薬の臭いだ。半ばまで垂らされた御簾が揺れ、乱れた音を立てた。
合戦の怒号がこの奥城まで届くようになったということは、味方の軍勢が次第に押されてきている何よりの証し。残された唯一の拠点を背に庇っての出陣だったのだが、人妖の戦闘能力をもってしても劣勢は覆せないらしい。敵兵が隊列を組んで使う火縄銃とかいう激烈な飛び道具、あれに手こずっているに違いない。
きっと――と彼女は同胞たちの顔を一人ひとり思い出して表情を曇らせた。なまじ生命力が強いぶん、膠着の挙げ句に疲弊しきって取り返しがつかないのだろう。
もはや後は、ない。
彼女は静かに覚悟を決めた。人妖一門を束ね白蔵大主の娘として今するべきことがなんなのか、教えられねば分からぬほど愚昧ではいられなかった。
幾つもの怒声が砂煙の中で錯綜する。
「妖し共め、往ね!」
「そう何度も同じ攻撃は食わぬわ! みな伏して隠行せよ!」
「五隊二組、前へ!」
敵味方が入り混じり、大地は穿たれ血に染まる。つい数刻前まで柔らかに萌えていた草緑は見る影もなく踏み荒らされた。
おびただしい足跡と物言わぬ骸だけを残し、戦場は確かに移動していた。すでに原野から続く山岳地帯へと入っている。このままでは霊山の中腹にある城砦に打ち寄せるのは時間の問題だろう。
味方陣営の本丸に父の健在を認めてから、彼女は一息で隠伏を解いて最前線へと躍り出る。
「葛葉御前――!?」
薙刀を振り上げた手すらとめて、一様に同胞らが目を見張った。敵である人間たちも思わず我を忘れ、ほんの一時、戦場に絶えることのなかった剣戟の音がやむ。
人間には虚空から突如として新手が現れたように見えたことだろうが、連中が驚倒したのはそのせいではない。
白銀に輝く天狐。
鉄扇を携えた、戦装束の女妖。人ならざるその姿は圧倒的に異彩を放ち、不吉なまでの美しさで対峙する者をことごとく惑わしてやまない。白蔵大主の一粒種・葛葉御前は、無数の伝承に残る旧世界の大妖“蘇妲己”を想起させるに足る容貌を備えていたのである。
「妾は白蔵大主が娘、葛葉! 人ならざる者たる力の所以、身をもって知りたくば前へ出や!」
目に見えて怯んだ敵兵めがけ、妖力を宿した扇の薙ぎが襲いかかる。
連鎖して立ちこめる苦鳴と罵声。それが乱戦開始の合図となった。
味方を鼓舞し、敵の戦意を削ぐ。一体どれほどの間そうしていたのだろうか。
ふと気がついて、瞬きを二度三度と繰り返す。やがてようやく彼女は自分がいつのまにか意識を失っていたのだと悟った。
やけに目線が低い。視界は霞む。手傷を負って大地に倒れ伏していたらしいのだが、脳裏を探ってみても攻撃を食らったという記憶は見出だせなかった。頭でも打ったのやも、と彼女は漠然と考えた。
起き上がろうと四肢に力を込めてみれば、意外にすんなり身体は動いた。痛みもさしてひどくない。
――合戦の場は静まり返っていた。
沈み込むような薄闇に覆い尽くされて、彼女の他には動く者もない。敵も味方も、目に入ってくるのは微動だにせず横たわる遺骸のみ。虫の鳴き声すらない。底冷えするような静寂。
累々たる屍の中に取り残され、彼女は真実独りきりだった。
「父上は……城へ?」
この近くには同胞だけでなく人間の気配さえ感じられない。とすれば考えられるのはただひとつ。
空を見上げ、周囲を見渡し、置き去りにされた事実をも振り切るように、彼女はひた走り始めた。
そうして住み慣れた城砦が視界に入るや否や、だった。
葛葉は不意に疾走をやめて踏み留まる。全身の肌が粟立ち、鼓動が一気に跳ね上がった。言いようのない強烈な畏怖が手足を痺れさせ、呼吸すらままならない。
考えるより速く知った。忌まわしい何かが起こったのだ、と。
周辺一帯に立ち込める、この禍々しい空気はどうしたことだろう。まるで災いの坩堝に放り込まれたような、あまりにも濃密な――そう、これはまさに穢れ。ひどく禍々しい濁り。
出陣前までは確かに清雅な佇まいだったというのに、一昼夜もしないうちに鳥は落ち、草木は立ち枯れ、戦の最中とはいえ尋常ではない。
彼女は本能的に怯んだ己を叱り飛ばし、這うようにして城門の内へと、父がいるであろう場所へと進んでいった。絶望的に気脈が乱されており、気配を捜し当てることは難しかったが、それでもなお一門の主である父の姿を求めて。
やがて花殿の奥、梨園に続く通路にさしかかったところでついに耐え切れず膝をついた。ぬるく粘ついた空気が城全体に満ちていて、それが身体からどんどん力を吸い取っていくのだ。萎えた手足、朦朧とする意識。猛毒の海を渡ろうとしてもがいているような錯覚を覚えた。
「猛、毒」
無意識に呟いたと同時、脳裏に閃くものがあった。
そこここに投げ出された敵味方の屍。傷跡や血痕がひとつもないのはなぜだ?
強靱な生命力をもつ人妖の、最後の砦たるこの城自体が抵抗した様子もなく息絶えているのは……一体なぜ?
見開いた眼が痛む。けれど確認せずにはいられなかった。彼女はよろめきながら梨園の深奥に向かって踏み入った。
一歩ごとに瘴気が強まり淀んでいく。歩みを進めれば進めるほどに確信が固まる。そして一際多くの骸が転がるその場所に辿り着いたとき、確信は極まり衝撃へと形を変えたのだった。
「封印碑が……打ち倒されておる」
厳重に守られていたはずの石碑が見る影もなく壊されていた。周辺には吹き飛ばされた格好で絶息した仲間と敵兵が累々と。
すがるように握り締めていた鉄扇が、鈍い音を立てて地に落ちた。
封印碑。あれは“殺生塚”という名の石碑だ。人妖らが長い年月をかけて鎮め、封印し続けてきた忌まわしき存在が、抑えを失くして解放されたに違いなかった。
“毒を噴き出す災厄の化身”とも“命あるものに仇なす怨霊”とも言い伝えられ、破滅の代名詞とされている存在が、再び世に解き放たれたのである。
「父、上!」
口伝によれば、その毒牙を突き立てられた者は全て死に至るという。偉大なる白蔵大主もまた例外ではいられなかった。
「ちちうえ、父上……ああ、ああッ、あああ――ッ!!」
死の静寂に浸された城の奥棟に、魂を揺さ振るような悲鳴が響き渡る。
彼女は急速に視界が蝕まれていくのを感じながら、なおもその場を離れることができなかった。
*
次に目覚めたとき、葛葉がまず感じたのは意外さだった。
(まだ、命があるとはな)
身体は泥に浸かったように重く、意識はぼんやりとしておぼつかない。それでも生き長らえているのは確かだった。
横になったまま、呆然と見知らぬ庵の天井を眺めていると、不意に横手から光が差し込んできた。ひどく眩しい。衣擦れの音と人の気配。現れた者がこちらを一瞥して息を呑むのが分かった。
「気がついたか」
安堵と警戒が入り混じったその声は意外に若い。霞む目を凝らして見つめると、声の主は人間の青年であることが見てとれた。
「ああ、まだ起きないほうがいい。ここなら誰も来ない。大丈夫だ」
若者は彼女の額から濡れた手拭いを取り上げて、たったいま汲んできたばかりらしい桶の水に浸ける。それを器用に絞ると、彼女の額に再びあてがった。何度もそうしてくれたのだろうか、妙に手慣れた様子だった。
沈黙と、冷えた額が心地いい。もう少しこのままでいたいという気持ちと、一刻も早く状況を確認しなければという気持ちが拮抗して、彼女は若者を眺めた。
介抱してくれるその腕には、幾重にも巻かれた包帯。ごく新しい。見つめてくる目には労りと怖れが浮かんでいる。
「おぬし……戦に出た者か」
唇から漏れた呟きは、存外に擦れて弱々しい。若者の肩が跳ね上がったのを、彼 女はまるで他人事のように見つめていた。
「――そうだ。徴兵があってな。あの城を攻め落とすには鎮護の石碑を壊せばいい、と」
だけど、と若者は膝の上で拳を握り締めた。
「塚を壊した途端、敵も味方も倒れちまったらしい。俺が駆けつけてきたときにはかろうじて虫の息の奴がいたんだが、塚の下から物の怪が出てきた、と言って息絶えたよ。それからあんたの声が聞こえて、だから」