ファンタジースキーさんに100のお題

020. 冥王


 日輪公宮(にちりんこうぐう)には無数の絵画が存在する。
 人の住む最北の町から霊峰キーツ山脈を仰いだ画、南部地方のうららかな春を感じさせる姉妹湖や、リィザ湾を切ない紅色に染め抜いて溶けゆく夕陽など、今や亡き巨匠の手による風景画は相当の数に上る。
 とはいえ、なんといっても公宮の絵画といえば人物画である。
 主だった部屋には必ず国母リチェルカーレと現大公の肖像が対で置かれ、絵画の回廊と呼ばれる一角には歴代大公の絵がずらりと並べられている、といった具合に。
 宮廷絵画協会を通してラグのもとへ持ち込まれたその肖像画も、普段は公宮の奥深くに収められている秘蔵の一枚だった。


 玻璃の防護覆いの上からでもまず目につくのが、青く険しいその眼光。
 絹のようになめらかそうな金髪も、身体の輪郭を豊かに縁取る白貂の衣裳も、双眸の厳しさに打ち消されて印象に残りにくい。
 第十七代大公、グリッサンド陛下の姿絵である。
 画布の中で、初老の貴人は口元を固く引き結んでこちらを睨み据えている。描かれてから百年以上を経ても、今なお息遣いが感じられるような存在感を失っていない。圧倒されるほど鮮やかな筆致だった。

 今回ラグが任されたのは、この肖像画の“修復”。
 いかに手厚く保存されていても、使われた画材が年月と共に劣化していくのは仕方のないことだ。先人の遺した芸術品を後の世に伝えるためには定期的な補修が必要なのである。
 ラグだけでなく、宮廷絵画協会に所属するほどの絵師ともなると、たいていが描く技術と修復する技術の両方を持っている。協会から依頼を受けて修復士として働くことは少なくない。
 先頃から手がけている現大公の肖像画が仕上がりそうなのを察したのか、気が向くとふらりと旅立ってしまうラグを牽制するかのような依頼だった。

 広大な行政庁区画の片隅にあるこの屋敷は、協会が所有する工房のうちのひとつだ。絵画に関する膨大な資料が保管されている。
 修復といっても単に色を補えばいいというものではない。手を加えすぎて原画を損なったり、相性の悪い絵具を補彩に使ったりしないよう細心の注意が必要になる。そのためには原画に用いられた画材や画布の種類と質、その絵師の好んだ技法、代表作、さらには絵師の性格や経歴、時代背景などにも深く通じていなければならない。
 そんなわけで、資料の宝庫である協会の工房は、泊まり込みで仕事に励むのに打ってつけの場所だった。

 ラグは無造作に髪に手を突っ込み、わしわしとかき回す。
 適当に束ねただけの髪型とよれた白衣とが、これほど身に馴染んでいる者は他にいないだろう。
 花燭宮(かしょくきゅう)の警備兵にたびたび不審者と間違われても、ラグは一切頓着せずに仕事着のまま国主の私生活の場に出入りする。まして今は工房にこもって仕事中なのだから、肖像画の中の人物と比べて服飾の程度に天地ほどの差があるのも、まったくもって無理からぬことだった。

 すでに絵の外枠は外し、洗浄を終えている。検分はとうに済んで画材も揃った。なのに一人きりで絵と向き合いながら、ラグは未だ筆を取れずにいた。


 第十七代大公グリッサンド。
 彼に贈られた謚号(しごう)は“冥王”という。
 その意味するところは『道理に(くら)き者』である。大公国六百年、国主二十一代の歴史上、その称号は類を見ないほど痛烈な批判だった。

 もっとも、彼のしでかしたことを顧みれば……、とラグは思う。
 兄の急逝によって大公位を継いだグリッサンドは、猜疑心が強く臆病な気質だったと記録は物語っている。
 家臣の、公后の、他国の使者の胸中を疑って裏を読もうと躍起になり、その果てに取り返しのつかない失態を演じてしまったグリッサンド冥王。あろうことか彼は、建国の古きから大公家を扶翼してきた五大貴族の筆頭・アビュール公爵家を、一人残らず処刑したのである。

 名目は『アビュール公爵家に簒奪(さんだつ)の計あり』だったが、結果から言えばこれは冤罪であった。国を思うがゆえの諫めの言葉と、悪意のある詭弁との区別がつかなかったばかりに、グリッサンドはその国政に明らかな汚点を刻むこととなったのである。
 アビュール公爵家の滅亡が国史に黒々と記されたのち、次第に大公国は専制君主制から立憲君主制への道を辿り……
 そこまで考えたところで、ふとラグは顔を上げた。

「なにか?」

 部屋の入り口で人影が動いた。協会の制服を着た少女のような女性が、なおもためらった挙げ句、お盆を手におずおずと入ってくる。

「あの、お邪魔してすみません。お茶、いかがですか……?」

 たどたどしい口調、緊張にこわばる手元。そういえばこの子は配属されたばかりの新人だった、と思い出して、ラグはゆっくりと微笑んだ。

「ありがとうございます、いただきます。その袖机に置いてくださいますか」
「は、はいっ」

 絵筆を持っている最中は別として、柔らかな湯気をたてる香草茶を後回しにするような習慣はラグにはない。すぐ備え付けの流し場で手を洗って振り返ると、真正面から女性と目があった。
 途端に真っ赤に染まる彼女の頬。あの色を出すには何色を基調にしてどんな色をどのくらいの割合で混ぜたらいいだろうか、などとラグがとっさに考えてしまうほど、生彩溢れる好ましい色だった。

「あの、シュトーレン様」
「様はつけなくて結構ですよ。普通に“さん”で充分ですから」
「は、はい。すみません」

 貴族の称号を持つ生まれとはいえ、ラグは絵師としての意識の方がはるかに強い。夜会服などよりも絵油にまみれた白衣を心地よく感じるくらいだから、血筋に敬意を払われてもさしたる感慨はないのである。
 彼女は一瞬しゅんとしたが、すぐに気を取り直して見つめてきた。

「公族の方の絵を、修復なさっているんですよね? 少しだけ、見させていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん。どうぞ」

 彼女の瞳がぱっと輝く。
 大公家の姿絵が、一般市民の目に触れる機会は限られている。まして原画となればなおさらだ。協会に所属するようになって間もない彼女が、修復作業前の冥王の絵を食い入るように見つめているのも、ごく自然なことだった。

「この御方は、冥王陛下?」
「ええ。十七代めの国主、グリッサンド大公陛下です。絵師はその当代随一と謳われたロイツ画伯。陰影のつけ方に特徴があるでしょう」
「ロイツ画伯、って、ここの奥の間にある太母陛下の絵を描いた方ですよね?」

 確かに、工房の奥にある聖母王リチェルカーレの絵画はロイツ画伯の手によるものである。
 ラグはにっこり笑顔になった。来たばかりにしてはよく勉強しているなという感心が半分、彼女の興奮した表情が微笑ましかったのが半分。
 そしてラグにつられて彼女も蕾が綻ぶように笑みを見せたものだから、二人は悪名高い貴人の絵を前にして、束の間、笑顔を交わし合うことになったのである。

「お邪魔して申し訳ありませんでした!」

 やがて、我に返った彼女がぴょこんと頭を下げ、出ていくのを見送って。ラグはお茶に口をつけながら、改めて肖像画に視線を置いた。
 流れるように輝く黄金の髪も、青空を封じ込めたとしか思えない繊細な瞳の色も、あの旧友にとてもよく似ている。

「冥王は頭痛のタネを焼き滅ぼして、幽王は一カ所にかき集めて箱へ押し込めた……」

 呟いて、窓の外を仰ぎ見る。
 今頃“彼女”は本宮で執務中だろうか。それとも花燭宮でお茶にしているかもしれない。あるいは彼女のことだから、外廷まで出て抜き打ち視察などしている可能性もある。
 お茶休憩だといい、とラグは願った。

 いま少しずつ描いている彼女の絵は、完成して年月が経とうともきっと修復士たちが補彩を続け、後世に伝えてくれることだろう。
 そのとき、一体どういった人物評が口の端にのぼるのか。そんなことに興味はなかった。ただ、写生のために先日会った旧友の顔色がひどく悪く、なのに本人がそれに頓着していないのが気がかりだった。
 むろん自分は政治的にはなんの役にも立たない。彼女の身の回りのことは女官衆が抜かりなく働いてくれるし、健康上のことに至っては生まれる前からの主治医が何人もいる。
 だから彼女に何かしてやりたくても、ラグにできることといったら、毎年の誕生日に彼女の絵を描いて贈ること、ときどき会って彼女の話を聞くこと、そして、決してそれを口外しないことくらいのものだ。

 次に会ったとき、彼女の頬も鴇色に輝いているといいのに。
 祈るような気持ちで、ラグは絵筆を手に取った。


 END